2009年03月26日

性教育訴訟に見る新聞各社の違い

現在、七尾養護学校(現・七生特別支援学校)の性教育訴訟問題をご存じでしょうか。
過激な性教育と、それに対する判決に対して、新聞社の対応が分かれています。こういうテーマだと新聞社の思想とか価値観が明確になります。

都議が訴えられているのは次の点です。

 この問題では、避妊具を装着するための男性器の模型を使って性交の仕方を教えるなど、独自の性教育を行っていた養護学校を都議3人が視察し、教材を没収。教員らが損害賠償を求め提訴した。判決で東京地裁は、都議の行動を「学校の性教育に介入し、教育の自主性を阻害した」として、教育基本法が定める「不当な支配」と認定し、都議と都に計210万円の損害賠償を命じた。

産経新聞のニュースを見ると次のように報道されています
(2009.3.13)
 知的障害がある児童生徒を対象とした同校では、独自の性教育を展開した。精通の指導では、男性器を模した模型から精液に似せた白い液体が飛び出るものもあった。男子生徒が集会室で突然、「学校で恥ずかしいことじゃないと教わった」と自慰行為を始めたこともあった。

いくら養護学校といえども、授業中に堂々とマスターベーションをし始める子が現れるような授業は、私はかなり異常な教育だと思います。
実際の教材の写真がありますので興味のある方はご覧ください。
ただし、いきなり過激な写真が出ますのでご注意ください。
「性教育 これでいいのか?−小学校で性交人形を使った性教育−」

ここで新聞各社の対応を紹介します

簡単にまとめると、
【産経新聞】と【読売新聞】は、
 ・良くない性教育であり
 ・都議の行為は当然
 と主張していますが、
【朝日新聞】と【東京新聞】は逆で、
 ・この性教育に問題はなく
 ・都議の行為は不当である
 と主張しています。


【産経新聞】 『性教育 過激な内容正すのは当然』(主張、3月14日)

 問題の性教育は性器のついた人形を使うなど不適切な内容であり、都議らの是正に向けた取り組みは当然の行為だ。これを不当とした判決は極めて疑問である。

【読売新聞】 性教育判決 過激な授業は放置できない(社説、3月16日)

 東京都議の言動に行き過ぎた面はあったかもしれない。しかし、政治家が教育現場の問題点を取り上げて議論し、是正していくこと自体は、当然のことと言えるだろう。

【毎日新聞】「不当な支配」判決 教委の存在意義が問われた

もちろん授業を見たり批判したりしてはならないというのではない。より適した改善や向上を目指す自由で建設的な批判や討議、意見交換は活発に行われるべきだ。しかし、判決が指摘したように、都議の言動は教員を萎縮(いしゅく)させる高圧的な非難といわざるを得ない。そして傍観的態度をとった都教委の責任の重大さを考えなければならない。

【朝日新聞】 『性教育判決―創意つぶす「不当な支配」』(社説)

 知的障害をもつ子どもたちが、性犯罪の被害者にも加害者にもならないためにどうしたらいいか。現場の教員らは日々悩みながら工夫を重ねていた。やり玉にあげられた人形は、自分のからだの部位を把握することも難しい子どもたちに、わかりやすいようにと考えた末の結果だ。
(中略)
 これだけでなく、日の丸・君が代をめぐる起立と斉唱を義務づけ、大量の教職員を処分してきた石原都政下の都教委では、現場の自主性を害するような政策が続いてきた。


【東京新聞】『不当支配』認定 教育介入へ当然の判決(社説)

 養護学校を訪れた東京都議が反論もさせないまま性教育を一方的に非難したのは旧教育基本法が禁じた「不当な支配」と認定された。現場に立ち入って教育の自主性を侵した行為を猛省すべきだ。

毎日新聞は明言していませんが、過去の記事をみれば七生養護学校の性教育を評価しています。
「スローライフ スローセックス」


社説で比較してみましたが、記事の見出しや内容にもこの思想や価値観が表れているのは当然です。従って、読んでいる新聞によって極端な影響を受けることになります。

性教育については、愛読している新聞によって、かなり違う考えを持つことになると思います。

私は昔、朝日新聞を読んでいたときに、愛国心が無くなり、社会に対して批判的になっていく自分に気づいて、それ以降は朝日新聞を読まなくなりました。過激な「朝日ジャーナル」は廃刊になりましたが、その路線は今も変わっていないようです。

新聞の記事も、そのまま鵜呑みにしてはいけないということですね。自分のアタマで考えることが大切だと思います。

それにしても、この裁判の行方は気になります。
私は都議を応援したいと思っています。
posted by こまもりパパ at 12:58 | Comment(8) | TrackBack(0) | 関係ない話

2008年06月20日

他人を許せない時、どうするか?

私は時々、誰かを生理的に「許せない」とか「嫌いだ」という思いになることがあります。昔と比べたら減りましたけど、まだまだ沢山あります。

そんなときの、わたし流の対応方法です
(参考になるかどうかわかりませんが)

誰かを許せないとか嫌いになったとき、例えば、
 「無責任な人を許せない」とか
 「我がままな人を許せない」とか
 「自慢話ばかりする人が嫌い」とか
 「自己中心な人が嫌い」とか…。

そんな時、私は、自分の中に相手と同様の悪い思いが無いかをチェックするようにしています。

すると発見しちゃうんです、自分の中にも。
 「責任持ちたくないのに、我慢して頑張っている自分」
 「わがまま言いたいのを言わないで我慢している自分」
 「自慢話したいのを我慢している自分」
 「自己中心で自由に生活したいのを我慢している自分」
を。

そうすると、「我慢しているかどうかの違い」だけであって、イヤイヤやっているとか、感謝していないとか、心の醜い部分は同じようなものだということを発見します。

そうすると、自分の課題も見えてくるし、少しは相手を許せるようになります。

「俺は性格良いのに、君はどうして性格悪いんだ」じゃなくて、
「おまえ、もう少し我慢したらどうだ。俺だって君と同じ性格だけど我慢してるんだよ」ってなります。
これで相手を許せない気持ちが減ることが多いです。

そういうことを繰り返して来て思うことがあります。
・自分が持っているのと同じ悪い部分を、相手にも発見したときに「許せない」とか「嫌い」って感情が出やすい
・自分が持っていない悪い部分を、相手に発見したときは、相手を同情する思いが生じる

そんな気がしています。(わたしの場合です)



追記(2008/7/8)

これを読んだ方から「偽善者」と言われてしまったので追記します。
言いたかったのは、「自分が優位に立って許してやる」じゃなくて、「自分も五十歩百歩だから、相手を責めるほど偉くない」と気付くことで解決の道があるということです。真意が上手く伝わらなかったのか、実際に私が傲慢で偽善者なのか正直分からないのですが。

当然、ここに書いたことは、私が常に出来ている事じゃないです。
(胸を張って言う事じゃないけど...)
常に出来る人がいたら、その人は「聖人」と呼ぺるんじゃないかと思うくらい、私にとっては難しいことです。

ここで書いた話は、昔に人から教えられたことで、聞いたときは観念的にしか分かりませんでしたが、実践(実験)してみて何度か成功したので、確信を強めつつある状況です。
ただし、正直、とても難しい事だと感じていて、自分の情を押し殺すのが精一杯という事が少なくありません。

それでも、小さな成功体験が何度かあります。
相手の非を見て軽蔑していた自分なのに、自分の中にも同じ非を見つけると、相手と五十歩百歩だと思うようになり、不思議なくらい相手を許せる様になりました。逆に自分を責めるようになることも結構ありました。そしたら、見えなかった相手の良い面を発見したこともあります。

すぐに気がつくこともあれば、何ヶ月もかかったこともあります。未だに解決できず忍耐し続けている問題も結構あります。

すぐに結果は出ないかも知れませんが、「相手の中に非を見つけて軽蔑の思いが出たときは、自分の中に同じ非を探す」というのは今後も意識し続けようと思っています。自分は幼い頃から情が屈折していたので、ひとと同じ努力じゃ更生されないからね。
posted by こまもりパパ at 00:42 | Comment(5) | TrackBack(1) | 関係ない話

2008年06月03日

罪を憎んで、人を憎まず

というのは私の信条としている言葉の一つです。
孔子の言葉だそうです。

罪を犯した者を反省させることは大切だけれど、反省したらそれ以上の制裁を加えてはならないという意味です。

私は、小学校時代はいじめられっ子で、惨めな思いをしたことが大きくなっても深い心の傷として残っていました。

その心の傷が痛む度に、「力を付けて復讐したい」とか、誰かをいじめている人を見つけたら「あんな奴、生きている価値無い」とまで思うようになっていました。

でも、こんな汚い心を持った自分自身が嫌いでした。他人を憎まずに生きている人をうらやましく思いながらも、「自分がこんな汚い心になったのはイジメた奴らのせいだ」と思っていました。

そんな中、大学の時に出会った先輩の姿や、読んだ本の影響で、生き方が変わりました、というより、「自分自身が目指したい理想像」が見えてきました。

何の本で影響を受けたのかは分かりません。「自信を付ける」系の心理学の本はずいぶん読みましたし、哲学書(キルケゴールとか)も読みましたし、その影響で内村鑑三や聖書も読みました。

そういう中で自分の人生観を変えた言葉の一つが、孔子の「罪を憎んで、人を憎まず」という言葉でした。まさに、自分自身が「人をも憎んでいる」ことに気づかされたのでした。

イジメをしている人に対して、「生きている価値無い」とか「二度と大きな顔して社会に出られないように制裁を加えたい」などと思っている自分の姿は、「自分をいじめた人たちと同じじゃないか」と気づきました。

私自身が好き好んでこんな性格になった訳じゃないのと同様、彼らも誰かの影響で心に傷を持っているから、イジメをして発散しているんだと思うようになりました。
幼い頃から、多くの愛情を受け、多くの施しを受け、人を心から信じる環境で育つことが出来たら、きっと思いやりの気持ちに溢れて、イジメをしたいとは思わないだろうと思うようになりました。

そう考えると、自分自身も、自分をいじめた人も、「どちらも犠牲者だった」と同情の思いを持つようになったのです。

それ以来、きっと彼らにも「良心」があって、彼ら自身も「心が解放されていない」だけだと考えるようにしています。

でも、まだ心の傷は残ったままですから、時々いろんな思いが湧いてきます。でも、「自分が目指したい自分の姿」を見つけて以来、「過去の自分に戻りたくない」って思いが湧いてきて、軌道修正しようとしている自分がいます。

心が屈折しないで育った人と比べたら、私の心は未だに「歪(いびつ)」です。でも、過去の「人を憎んでいた」ときと比べたら、すごく開放されています。

それで、この世から「イジメっ子」を無くす活動をしたいと思うと同時に、「いじめられっ子」が次の「いじめっ子」にならないように活動したいと思っています。たぶん、虐待やDVも同様の原因が多いんじゃないかと思っています。

自分の心が解放されたきっかけは先輩の生きている姿とアドバイスでした。自分もその先輩と同じように影響を与える者になりたいと思っています。(傲慢?)




追記 2008.6.19

読み返してみて、誤解を受けそうな文章なので追記します。

犯罪者をすべて許すという話じゃありません。罪を犯した者には反省と謝罪(賠償)が必要ですし、被害者なら、そこまでは責めても罰は当たらないでしょう。それ以上責めるのは、人を憎んでいることなので良くないという話です。犯した罪の重さ次第だと思います。
でも、他人が被害者の気持ちを代弁して加害者を責める場合は難しいです。正義感のあまり、過剰に責めてしまいやすい気がします。

それから、私の好きな言葉だし目指していますが、私には遠い目標です。長い年月かけて作られた性格は、変えたくてもなかなか変われないものだと感じます。(悲)
posted by こまもりパパ at 10:02 | Comment(2) | TrackBack(0) | 関係ない話

2008年05月04日

ゆとり教育の責任は誰もとらない?

以前にこのブログでゆとり教育を強引に推進したのは日教組と民主党であることを紹介しました。
http://blog.komamori.com/article/12322301.html

ここにきてようやく「脱ゆとり教育」という動きが出てきました。たとえば、東京都の石原知事は、中高生の塾代を無利子で融資するそうです。
http://sankei.jp.msn.com/life/education/080430/edc0804300103000-n1.htm

中高生の8割が塾に通っていますが、低所得層の家庭は塾に通わせることが難しく、所得による教育格差が出ているため、それを解決するためだそうです。
8割もの子供たちが塾に通わなければならない状況は異常としか言えません。学校での授業を見直す必要があります。
融資というのは、知事として出来る範囲を考えれば評価できる事だと思いますが、なんだか変でよすね。

文部科学省や教育委員会よりも、石原知事のほうが、よっぽど子供たちの状況を理解しているし、解決の意欲を感じます。

様々な国際競争力の結果を見ても、日本は徐々に順位を下げていて、過去は世界でもトップクラスだったこともありましたが、年々順位を下げてきていて、現在は10〜30位程度で、中国や韓国にも勝てなくなりつつあります。それに、次世代を担う青少年の競争力が心配という声が多くなり、日本の未来に希望を持てない条件が増えてきました。

今時の子供たちは(遊び場が少ないこともあり)暇でしょうがないから、携帯電話やゲーム機で時間を潰すことも多くなりました。それらの費用も「お小遣い、プレゼント代の一部」と考えれば、かなりの額になるはずです。子供の金銭感覚がおかしくなっています。

塾の費用もかかり、携帯電話やゲーム機の費用もかかる社会ですから、少子化になるのが当然です。

ゆとり教育の弊害は日本の将来に対して大きな痛手になっているのは間違いないでしょう。

昔は「勤勉な日本人」でしたが、今の大人社会では「努力、根性、勤勉、誠実、協調、格位」といった日本の伝統精神が薄れている感じがしますし、その親に育てられている子供たちも同様になってきている気がするのは私だけでは無いようです。

ゆとり教育を強引に進めてきた日教組と民主党に一番の責任はあるのでしょうが、それを支持したのは国民です。だから、ゆとり教育の責任を問う声が少ないのでしょうかね。

国際競争力の低下によってGDPの低下、不景気などをもたらすとしたら、日本にとっては「大損害」に違いありません。

子供たちに楽をさせようと思ったのかもしれませんが、そのツケは、子供たちの将来に重くのしかかってくるのでしょう。

このまま責任を曖昧にしていて良いのだろうか?
posted by こまもりパパ at 19:28 | Comment(18) | TrackBack(0) | 関係ない話

2008年04月22日

「子ども」か「子供」か?

うちの学校では「子供」と書かずに「子ども」と書く事になっていると知って、ちょっと調べてみました。

いろいろ調べましたが、「子供」が良くないという説得力のある理由が見あたりませんでした。


「子供」が良くないという理由を探してみると

@ 供という字は「供え物」や「大人の付属品」のような意味で付けられたから、子どもの人権のために使うべきでないという説。

A 供という字は複数形を表すから、単数でも使えるように「子ども」と表記して、複数の場合は「子どもたち」と書くべきという説。

B 常用漢字音訓表では「供」の読みに「ども」が無いから使うべきでないという説。

C 供の字は「供え物」という意味で縁起が悪いという説。

D 子供で全く問題ないが、「供え物」と誤解する人がいるあるから使うべきでないという説。

などがあるようです。


次にその反論意見を探してみると

@に対する反論は、「わたくしども」などの「ども」という大和言葉に単に「供」の字を当てただけで、供え物などという意味で使われたという話は、文献を探しても見あたらないということ。

Aに対する反論は、「ども」が複数形だったから、ひらがなにしても同じであるし、現在の「こども」は単数として扱われている。本来は複数だったからと主張すると「友達」は二人以上の時にしか使えないことになる。昔は良い意味で使われた「貴様」のような例もあり、本来の意味にこだわる必要はないという話。

Bに対する反論は当て字として定着しているのだから問題ないということ。

Cに対する反論は、縁起が悪いということだけで簡単に言葉を換えられてしまうのは迷惑な話であるということ。

Dに対する反論は、言葉本来の意味を知らずに誤解する人が悪いのであって、そのために言葉を変えるのは間違っているという話。

といった感じで、どれも説得力のないものばかり。
無難な理由は、Cの「縁起が悪い」でしょうか。

私としては、学校では慣例にならって「子ども」と表記するようにしますが、学校外では特に意識することなく「子ども」も「子供」も使っていこうと思っております。

何か説得力のある説明が聞けるまではね。
posted by こまもりパパ at 13:03 | Comment(4) | TrackBack(0) | 関係ない話

2008年04月07日

傲慢と自負心の違い

つい最近、「傲慢」と「自負心」の違いについて話を聞きました。
なるほど!と思ったので紹介します

時々「自分はすごい!」と思うときがありますね。それは「自負心」なのですが、誰かに自慢したり伝えたりすると「傲慢」になるというのです。自負心を誰にも言わず自分の中にだけ留めておけば、それは純粋な自負心となるという話です。

傲慢でない純粋な自負心を持ちたいと思いますが、でも自慢したくなります。だって、自信を持てないことだらけですからね。十分に自信が持てないから、それを優越感で補おうとするために自慢するんですよね。
(自分の経験上)

逆に、自分に十分な自信があれば、自慢して優越感を得なくてもいいのでしょう。何かを極めている方が「私にはまだまだ学ぶことが沢山あります」と仰っている姿がそれに近いのかなと思ったりします。

「能ある鷹は爪を隠す」と言いますが、自慢したい心を抑えて、自分の中に留めておくというのは、かなりの自信があってこそ出来る事なんだろうと思います。そのためには、自信に溢れていて、自慢しなくても十分に誇りを持てるほどの自負心が必要な気がしました。

そんな自信を持ってみたいものです。
posted by こまもりパパ at 22:55 | Comment(0) | TrackBack(0) | 関係ない話

2008年03月27日

18歳成人の議論について (一人前とは?)

最近はあまり目にしなくなりましたが、「18歳で成人と認めるか」とう議論がなされていました(現在進行中かな)

その是非は正直よくわかりませんので、コメントは控えます。
その代わりに、「成人」とか「大人」って何なのかを考えてみようと思います。

よく「一人前の人間って何ですか?」 という問いかけに対して、
「生まれてからこれまで自分に手をかけてもらった以上を誰かに返したら一人前だ」という話を聞きます。
分かりやすいし何だか説得力があります。

「俺は誰の助けも借りずに生きているんだから、もう一人前だ」というのは間違いだという訳です。それはまだ一人前じゃないというのです。

誰でも赤ん坊の頃は、誰かの手を借りなければ生きることすら出来ません。そして、食べる物や着る物を与えてもらい、食べ方や言葉を教えてもらい、病気になれば看病してもらい、生きるために基本的に必要なあらゆる施しを受けながら生きます。学費を出してもらうことも多いでしょう。普通は20年前後の期間、そのように多くの物を受けながら成長しています。

それを返し始めるのが日本では20歳前後ですね。仕事を始めて親に仕送りをしたり、自分がしてもらったように我が子を育てたり、他人の子の面倒を見たり、お年寄りの面倒を見たりしながら何年もかけて恩を返すわけです。

そう考えると、夫婦で二人の子供を立派に育てたら、自分が親から受けた量の恩を与えたことになると思います。
我が家には子供が4人いますから、立派に育て終わったら、一人前と胸を張って言っても良いのかなと思っています。あと15年くらいかかりますが。

夫婦で二人のお子さんがいなければ、その分、親や他人に施してこそ一人前の人になれるのだという計算になります。

最低限、受けた物は誰かに与えないと減る一方ですからね。

成人というのは、受けることから与える事への転換点という見方も悪くないと思います。
posted by こまもりパパ at 13:08 | Comment(2) | TrackBack(0) | 関係ない話

2008年03月03日

作為的な? 言葉遊びの罪悪

どうも知識人たちは、言葉遊びで大衆を扇動する傾向が強い感じがします。これは日本独特の文化なのか、諸外国でも同様なのかは知りませんが。
それに簡単に騙される人が多いのも残念です。


いくつか例を挙げてみます

満月 「フリーセックス」
これは、日本では誰彼構わずセックスする事を意味しますけど、本来は「性差(sex)を無くす(free)」という意味であったそうです。それが少し拡大解釈されても、「税金を納め、子育てに責任を持つ相手ならセックスしてもいい」という意味で使われる程度であったそうです。

しかし、これを日本では「エロい」意味に変えて広めてしまいました。日本の知識人ってそんなことばかり考えているのかな?
世界でフリーセックスが流行していたのは確かでしたが、意味が違いました。間違ったフリーセックスが流行の最先端のように思いこんだ日本人はおかしな方向に進んでしまいました。


満月 「女性の社会進出」

これ、どう解釈しても問題です。
これまで女性は、子育てや親の面倒を見たり、地元の横のつながりやPTA活動など男性とは違う場所で様々な役割をしていたと思います。
でも、「女性の社会進出を推進しよう」と言われると、なんだか今まで女性は社会に居なかったような、社会には役立っていなかったような、疎外されていた寂しさを感じますね。

その実際の活動を見ると「社会進出」と言っている割には、推進している方向は、「女性の経済競争社会へ進出」だったりします。
最初から、「女性も経済競争社会に進出しましょう」と言われていたら多くの女性は損をしていたとも思わなかったと思います。なぜ誤解される表現にしたのでしょうか。

多くの女性に「被害者意識」や「不公平感」を与えて騙すために作為的に言葉を変えているとしたら、これは、ほとんど詐欺というか犯罪ですね。

逆に作為的でないのなら、これを主張している人たちが、本当に女性たちは社会活動に参加していないと考えていることになります。これは明らかに女性に対する侮辱です。とても偏見に満ちていますね。

犯罪か偏見か分かりませんが、どちらにせよそんなことを主張している政党や評論家たちに言いたい放題言われて女性たちは悔しくないのでしょうか。それとも、多くの女性たちは、自分たちの子育てや近所づきあいなどは社会活動じゃないと本気で思っているのでしょうか。


満月 「男女共同参画社会」
も同じですね。
今までだって男女は共同で社会を作ってきたと思うんだけどね。
それに、その運動が目指しているのは、やっぱり「男女平等競争社会」って感じがしますし。名称と実際の方向性が合ってません。女性が参画していないという誤解を与えて煽動するためにこの呼称にしたのでしょうか。


満月 「権利」

この「権利」という言葉は必ず「責任」とセットで考えないといけないのに、責任という言葉を隠して、権利だけを主張する人がいます。子供の人権、加害者の人権、女性の権利など。
もちろん、国連が言う子供の権利というのは基本的な人権のことですからそれは正しいでしょう。
でも、日本は携帯電話代まで親が出しているような国です。
その日本の小学校では、「親の言うことを聞かなくても良い権利」を教え、中学校では「誰とでもセックスする相手を自分で選ぶ権利」を教えている学校が少なくないそうです。
「責任」はどこに行ってしまったのでしょうか?
そんなことを教えている人は、頭が変か悪意を持っているかのどちらかですね。


満月 「自由」

というのも間違って使われることがよくあと聞きました。
「自由に、のびのびと、個性豊かに育てる」などと言う人がいます。

子供には多くの自由が必要だなんて。まるで不自由が悪いことのような言い方です。
もし不自由が不幸だと言うなら、独身が幸せで、結婚や子供を産んだりしたら不幸になるはずです。
不自由になる結婚を何故するのか? 不自由になるのが分かっているのに何故子供を欲しがるのか?
そう考えれば、不自由と不幸とは関係ないことくらい、すぐに分かります。不自由な中でこそ親子や夫婦の絆が出来るというのです。勝手気ままに生きていたら絆が出来ないのです。
不自由が悪いことのように教える人たち、いい加減にやめてもらいたいです。


ちょっと思い出せませんが、他にもいろいろと気になる言葉がありました。
こんな言葉遊びというか、本質を隠した言葉によって、価値観や風紀を乱す行為は許し難いですし、そんな「実態と乖離した言葉」に騙される人が多いのも非常に残念です。
posted by こまもりパパ at 19:01 | Comment(3) | TrackBack(0) | 関係ない話

2008年01月11日

学研の地球儀の問題

(ちょっと国際政治っぽい話です)

学研が、台湾を「台湾島」と表記し、音声案内では「中華人民共和国」と表現する地球儀を販売していたというニュースがありました。

「中国の工場で生産しているため、中国政府の指示に従わざるを得なかった」と釈明していたし、
また、「さらに、日本の地理の教科書では帰属先が未定として白表記になっている樺太の南半分や北方領土以北の千島列島を、ロシア領として色分けしている。」ということでした。なんとも情けない話です。

学研の地球儀が公平な立場で作られていないのは混乱の元です。政治的な圧力を受けているとはいっても。

日本は、中国の主張は「尊重する」としても受け入れている訳ではないし、逆に台湾を独立国として認める面も強いことくらい私でも知っています。

まだ問題が明るみに出たので良かったです。

私は国際政治の専門家じゃないですけど、中国が信奉している共産主義と、日本の民主主義は「水と油」の関係というか、共存できない価値観だという事くらいは学んで来ました。

どうしてかというと、
共産主義の目標は、「財産等の私的所有を、全て社会的所有にして格差を無くす」ことだと理解しています。だから一党独裁なわけです。
民主主義はその逆です。

だから、たとえ中国が共産主義になったとしても、世界に「私的所有」が残っている限り、それは貧富格差のある民主主義なわけで理想社会じゃないのです。
結局は「全世界を共産主義にするまで理想は来ない」と考えているからだというのです。

本来、民主主義は「様々な主義思想を認める」立場ですが、共産主義だけは上記の理由で「民主主義を撲滅することが最終目標」だから、米国は共産主義だけは認めることが出来ないというのです。

日本という国は、「一党独裁の中に日本も取り込みたい中国」と、「共産主義を許さない米国」との間に挟まれて身動きが取りづらい立場にいるわけです。

どちらが良いとか正しいとかは専門サイトに任せますが、微妙な水と油の関係の[中国−台湾]であり、[中国−日本」なのですから、もう少し慎重に作ってもらいたかったです。

国際関係は厄介ですが、日本としては微妙なバランスを保って近隣諸国との関係を維持しているのですから、その苦労を無にするような地球儀は困ったものです。
posted by こまもりパパ at 13:09 | Comment(1) | TrackBack(0) | 関係ない話

2008年01月05日

忍耐することで得をする

私の職場にはコールセンターがあります。

そこで、「忍耐することで心が成長する」姿を多く見てきました。

そのコールセンターの主な業務は質問の回答ですが、クレームの電話も少なくありません。

若い女性が多いその職場では、電話を切った後でよく泣いている姿を見ますし、休憩室で誰かが泣いていたという話をよく耳にします。

若い女性のオペレータに対して、容赦なく「いじめ」の様にクレームを言ってくる人がいます。誰にも聞かれていないのを良いことにひどい事を言ってきます。(でも実際には録音されています)
もしかしたら、仕事や生活の不満のはけ口として利用されているのかもしれません。

何かに激怒して、怒り心頭に発したときに電話をしてくるのですから、どんな丁寧な対応をしたって厳しいのです。中には子供のような自己中心の大人もいるし。

それにオペレータといっても普通の人ですから、忍耐力にも限度があります。あまりにもイヤなことを言われれば忍耐できなくなります。

でも基本的にオペレータは、口答えしないことを要求されます。ひたすら会社の窓口として謝り続けるのみです。自分は何も悪いことをしていないのに怒られ、怒鳴られ、イヤミを言われます。
「今の言葉づかいは許せん。俺に謝れ」とか
「何だ今の態度は! おまえなんてクビににしてやる。今すぐ上司に替われ」なんて事を言われます。

そんな時、オペレータは、
怒らせてしまった後悔と、自分が問題を起こしているんじゃないかという恥ずかしさと、理不尽な言葉を浴びせられても口答え出来ない悔しさと、お客さんが上司に自分の悪口を言っている悔しさと、自分の待遇が悪くなるかもしれないという不安感とが同時に襲ってきて怯えています。

それでも、上司から「君は何も悪くないよ」と言ってもらえれば救われますが、そんな上司ばかりとは限りません。非常にしんどい仕事です。

以前、私はこの人たちに、こんな仕事はあまりにも辛い仕事だから他の仕事に変わったらいいと勧めていました。

でも、時間が経つにつれて気がついたことが2つあります。

ひとつは、お互いがとても仲良しなことです。お互いに慰め合ったり、時には同僚を擁護する為に上司にたてついたりします。下手をすると自分の立場も危うくなるのに、同僚のために上司に文句を言う人たちが大勢いるのです。

もうひとつは、みんな思いやりがあり優しいんです。細かなことに気がつく人とかっていますけど、そういう事じゃなく、言葉が優しいんです。誰かの失敗で自分たちが嫌な思いをしたとき、露骨に非難して当然の状況でも、言葉を選んで話をしています。

それで気がついたのです。理不尽で精神的にキツイ仕事ですが、心がとても美しく成長しているのです。

逆に、自分が受けた心の傷や痛みを原動力として、思う存分言い返して、その度ごとにスッキリしていては成長がないことが予想できます。

心に受けた痛みを忘れず、傷を抱えていてこそ、他人の心の痛みが自分の痛みのごとくに感じられるのだから、いちいち「売り言葉に買い言葉」でスッキリさせて痛みを忘れてしまうのは、心の成長としては損な行動なんですね。

だから、今では、クレーム対応は辛いけど良い仕事だと思うようになりました。
ただし、受け止めきれずに恨みになるとまずいです。孤独になると危険だと思います。否定を受けても、上司と同僚が味方になっていてくれれば、きっと乗り越えられるでしょう。

特に、結婚を考えたらとても良い訓練の場だと思います。
夫婦ってお互いに傷つくことが多いですからね。聖人のような人同士が結婚したら問題ないかもしれませんけど。
普通の夫婦は聖人のような人格は無い上に、100%分かり合える筈もないのに、毎日距離は近いのだから、衝突は避けられないのです。

私は、衝突しながらも、何年もかけて理解できる範囲を広げていく努力をして、いい夫婦になっていくものだと教えられてきました。15年経った今も忍耐の継続中です(汗)

忍耐力が無く衝突に耐えられない場合は、干渉しないとか距離を置くしかなくなります。でも、距離を置けば衝突が少ない代わりに理解の度合いも少なくなり幸せも遠ざかるでしょう。
だから、どちらかに忍耐力というか寛容さが無いと、理解し合える前にバラバラになってしまい、結婚を後悔することに成りかねません。
「結婚とは忍耐である」という表現をする人がいますが、「忍耐の先にこそ幸福がある」というほうが誤解が少ないと思います。

コールセンターに限ったことではなく、自分に浴びせられた言葉に忍耐し、全てを許そうと努力することが、「損」な事のようで、実は「得」をしていることになり、いちいち反論してスッキリしていると、得した様で実は損している事になるのでしょう。

世の中、こういう逆説的なことが結構多いです。
以前に松居和の話で書きました「不自由になることで本当の幸せが得られる」のも同様でしょう。

物は、与えれば減るし、与え続ければいつかは無くなりますが、心の世界では、与えたら以前より増えるようです。増えた分はどこから来るのでしょうか。不思議です。でも間違いなく増えています。
逆に、忍耐しないで減らないようにしていると、いつまでも増えないのかもしれません。

面白いものです。
posted by こまもりパパ at 18:43 | Comment(8) | TrackBack(0) | 関係ない話

本年もよろしくお願いします

昨年はなんだか時間がとれなくて、ホームページの更新も止まってしまいました。
その間も、子供たちを取り巻く環境は良くなる兆しもなく、携帯電話の対策は進まないのに所有率は上がる一方で、困ったものです。

携帯電話会社は利益を追求しますから、利益確保のためには子供たちに普及させるのが効果があることは分かります。これだけ問題が起きているのですから携帯電話の普及が有害となっていることを知らないはずがありません。でも、何が有害なのかが明確になっていないため企業も対応を先延ばしにするし、政府も規制をかけにくい状態なのでしょう。

たとえば、たばこの表示について日本はかなり遅れていました。
以前は「健康を損なうおそれがあります」という表記でした。
今は「喫煙はあなたにとって肺気腫を悪化させる危険性を高めます」というような具体的な病名を出した表記に変わりました。

このような具体的な警告としての表記は、米国では20年も前から表示されていたのに、日本では国連の「たばこ規制枠組み条約」によってようやく2005年に変更されました。日本という国は、外部から圧力でもかからないと、企業の利益が優先されてしまいますし、大手企業の利益を損なう政策を打ち出せないのが日本の政府のようです。

しかし、政府は自発的には動けなくても、国民運動となれば政府も動きやすくなるでしょう。そのような運動(風潮)が始まることを願っています。

それには、携帯電話の何が利点で、何が問題なのかを明確にしていく事が重要と思っています。そして、いくら便利でも、子供が危険に晒されるようなら遠ざける必要があります。そんなこと、親なら誰でもやっていることなんです。

赤ん坊が口に入れて窒息しそうなものは届かないところに置くとか、子供が誤った操作をすると危険な工具はいくら便利でも触らせないし、毎回片付けておくとかしてますね。つまり、いくら便利だでも使い方次第で大きな危険を伴う場合は使わせないのが愛情だということくらい、どこの親でも知っています。

それと同じで、携帯電話やインターネットなども、使っても良い機能、使うと危険な機能をはっきりさせて、規制をするのが愛情のはずです。

でも、なぜ出来ないかというと、それは「無知」なんです(私も含めて)
何が安全で、何が危険かがハッキリ分からない。特にどんな危険が予測できるのかが分からないから対策が十分に出来ていないのです。逆に言えば、それさえ分かれば対策は可能だろうと思っています。

友達が持ってるから欲しいとか、お店の勧めや雑誌の記事など、自分の利益目的の人たちの声を鵜呑みにしてはダメなのです。少しは親の目で自分のアタマで考えるべきなわけですよ。

そのために、こまもりのホームページでも、情報を収集し整理して、危険を予測して対策できる賢い親になれるように支援をしていくつもりです。

本年も(細々と?)続けてまいりますので、よろしくお願いいたします。
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2007年12月24日

教育再生会議に対しての提言について

ニュースで、
「日本教育再生機構は、内閣官房教育再生会議に対して3度目の提言申し入れを行いました」(12月18日)

とありました。この提言をしたのは、先日たまたま参加した「教育再生タウンミーティング」を開催した団体でした。

私は教育界の現状を熟知していないので、提言の内容が良いか悪いかは分からないのですが、文章の中に、今の教育界に潜む魑魅魍魎というか、ドロドロした問題がある事が読み取れます。

私が見つけた事を書いてみます。私がよく知らなかっただけかもしれませんが。

全文はこちらです
http://www.kyoiku-saisei.jp/katud/mos191220katud-m.html


(以下、青文字が引用部分です)


1 「『ゆとり教育』決別」「子ども中心主義からの脱却」「客観的で測定可能な学力を」という明確なメッセージを
のところを読むと、

 また「生きる力」「ゆとり」を含む「新しい教育観」には、「『指導』から『支援』への転換」という、行き過ぎた「子ども中心主義(児童中心主義)」が理論的な背景にある。この「子ども中心主義」が教育のあらゆる場面で教師から指導力を奪い、結果として学力の低下、規範意識の低下をもたらした現実を直視すべきである。

とかかれています。今の教師は、中教審がゆとり教育の方針を題したときから児童中心主義になっていたんですね。確かに私の見る小学校の先生には権威がありません。子供からバカにされているというか、先生が暴力を振るえない事を知っているため、堂々と規律を乱し、先生に反逆する子が少なくないようです。

3 「全国学力テスト」の情報公開およびフル活用を
には
学力テストおよび情報公開の反対運動を展開する一部の教職員組合や閉鎖的な教育界の勢力に引きずられて国民の権利や子供の学力向上を犠牲にすることは許されず、早急な情報公開とその活用を求めて頂きたい。

どこかの教職員組合が、学力テストの公開を反対して、競争のない社会を作ろうとしていることが分かります。ずいぶん前ですが競争を無くす学校が問題になっていました。徒競走は順位が決まるから廃止したり。まるで、崩壊してしまったソ連の様です。競争の無い同一評価の社会では「頑張らないことが一番賢い生き方」ですから。

4 校長の権限強化、不適格教員を徹底排除し、教員免許更新の講習は教職大学院で行う
を見ると
また、教員免許更新の講習は、改正教育基本法や改正学校教育法が新たに設定した「教育の目標」を具体的に教示できる機関や教官に行わせるべきであり、これまでの国立大学教育学部を中心として実施されることにでもなれば、苦労して学校現場の現実感覚を身につけた現職教員も、再び問題教師を支援するような一部の左翼的・教職員組合的な空論で混乱し意欲を失ってしまう。

と書かれています。国立大学教育学部って学校現場の現実感覚を持っていないのでしょうか? だとしたら、とんでもない話です。


6 教職員の政治活動の完全禁止と教科書法制定を
には
 国家公務員の政治活動の禁止は法律で罰則が定められているが、地方公務員法には罰則規定がないなど、法律上の不整合があり、これが一部の教職員組合の活動を助長する最大の原因である。地方公務員法の改正を求めるとともに、政治活動禁止については文部科学省や人事院など上級官庁からの「指導」を周知徹底させるべきである。また、教職員団体の適切なあり方について、ガイドラインを示す方向で議論すべきである。

これは、教職員組合が政治活動をしているということですね。先日調べて分かった、日教組が民主党に入り込んで、民主党を動かしているという話がこのことなのでしょうか。
先日、義家議員が、日教組では、新人の教師に対して、新人歓迎会と称してお酒を飲ませ、若い女性教師を横につけて入会させる場を何度も見てきた話していました。教師に酒を飲ませて入会させるというのは、あまりにも不謹慎な勧誘だと思います。

さらに、一部地域で見られる一部の教職員組合の推薦がなければ管理職に登用されないなどの教育委員会の不適切な人事政策に関しても改善策を提示して頂きたい。

これってとても怖い話です。噂には聞いたことがあるけれど、これほど公的な文書で書かれるほど(一部の)教職員組合は腐敗しているんですね。そんな組合は即刻解散するべきですね。

7 学校選択制および高校の学区制撤廃を推進し、教育界の談合体質の排除を

さらに、公私間協議ともいわれる、公立学校と私立の経営者が話し合って次年度の入学者受け入れ人数を決めるのは一種の談合である。学校の教育力向上を阻害する談合体質は厳しく非難し排除すべきである。

これも、公立高校に受け入れ態勢があるにもかかわらず、公私間談合によって公立高校の定員を制限することが毎年行われていると聞きました。私立高校を保護する為なのでしょうけど、私立高校は談合じゃなくて自助努力で生き残ってもらいたいものです。


考えてみれば、教育界というのは、近くにあるのによく見えない部分です。保護者から見えないために、腐敗してしまったのかもしれません。
私の知る先生は、例外なく教育に対して情熱的で、腐敗とは縁遠い感じです。だとすると、この提言にあるように、教職員組合という圧力によって先生が縛られていると見るのが妥当と思われます。

早期に、腐敗体質が改善されることを望みますが、現実に圧力を受けている先生に対して要求するのはあまりにも酷な話です。ですから、保護者が先頭に立って、先生を解放してあげることが必要なのかもしれません。
posted by こまもりパパ at 13:03 | Comment(0) | TrackBack(0) | 関係ない話

2007年12月20日

結婚に失敗しない方法

「結婚」って人生の大部分を決めてしまう重要なことですけど、教育って誰がいつ行っているのでしょうか。学校では「結婚学」なんて授業は無かったし、誰も教えられないのでしょうか。

結婚に失敗しない方法、良い結婚をする方法ってすごく重要な事だと思いますが、あまり情報源が無い感じです。
私自身もたいした情報は持ち合わせていませんが、問題提起という感じで、結婚についての私の考えを書いてみようと思います。

「私はこうして結婚した」という成功体験ではありません。結婚して子育てをて、自分の準備の無さに時々後悔しながら「こういう結婚がいいんじゃないかな」と思ったことを書きます。
だから、決して「おすすめ」でも「正解」でもありません。こういう考えもあるという程度で読んでいただいて、ご自分の結婚とか、家庭をより良いものにする機会になれればと思って書きます。


お見合いがいいか恋愛がいいか?
できちゃった婚はどうなの?


「ドラマチックな大恋愛をして結婚したい」とか、「白馬の王子様みたいな人が現れないかしら」とか、若い女性の結婚に対する憧れはとても強いものを感じます。
男性にとっては、良い仕事と良い結婚の二つを意識しますが、多くの女性は良い結婚がとても重要なわけですね。

では、良い結婚って何なのでしょうか?
一目惚れで強烈に心がひかれて、大恋愛のうちに結婚するのが良いのでしょうか?

ここで、ちょっと真面目に結婚の目的を考えてみましょう。

・素晴らしい伴侶を得て生涯幸せになること
・子供を産んで、良い家庭を築くこと
・両親に、孫を持つ幸せを味あわせること
・自分が幸せになって親を安心させること
・子育てを通じて一人前の大人になること
・次の世代に、親心を伝承させること
・子供に先祖代々の墓を守ってもらうこと
・子供に老後の面倒を見てもらうこと

考えるといろいろ出てきそうです。
これだけ考えても、大恋愛とか白馬の王子様とかファンタジックな結婚式などは、重要な要素では無さそうに思われます。

恋愛はいつまでが良いか?

新婚の頃が愛情のピークで、年月とともに冷めていく夫婦と、
新婚の頃はそこそこでも、年月とともに愛情が強まっていく夫婦と、
どちらが良いのでしょうか?
私は後者がいいです。

そのためには、出会い方や結婚の仕方ではなく、10年後、30年後にも幸せが続くような結婚をすることが大切ということが分かります。

結婚してから、10年後、30年後にどんな家庭を築きたいのか、それが一致していなければ本当の幸福にはなれないでしょう。どんなに大恋愛をしても、進む方向性が全く違う人が一緒に行動するのは困難です。
例えば、東に進もうとする人と西に進もうとする人が一緒に行動するとしたら、どちらかが相手に合わせて犠牲になるか、どちらも進めないかになりますから。

既に結婚している場合は、なるべく早く確認と調整(時には妥協)したほうが得策ですね。離婚はお勧めできません。人生をリセットするような考えでは、いい人と再婚したって困難を乗り越えられないと思うからです。


こんどは、別の観点で考えてみましょう。

それは、「自分に合わせてくれる人を見つけるのか」、「自分が相手に合わせてあげようとするのか」という観点です。

よく「私を幸せにしてくれる人がきっといるに違いない」と理想の相手を捜し続けている人を見かけます。つまり、自分が相手を愛することよりも、相手が私を愛してくれる事を強く望んでいるわけです。極端なことを言えば、「一方的に私を愛してくれる人」を探している事になります。
これって、究極的には父親か母親しかいませんね。とても難しい要求です。
それに、相手の立場で考えてみると、「私に合わせてくれる」ということは、相手は「合わせ続けるだけの人生」な訳です。ですから、そんな愛情は長くは続かず、捨てられるか、冷めた夫婦になりやすいと思います。

そんな一方的に愛してくれる相手は希少でしょう。生涯に何人出会えるか。だから、もし見つけたときに、他の条件で候補を絞り込む余裕はないでしょうね。ひどい場合は、ストーカーや無理心中をしてでも、その相手に執着する場合もありますね。

もし反対に、「私が幸せにしてあげたい」と考えたら、結婚相手は無数にいることになります。それならば、多くの候補者がいるわけですから、その中からより良い条件で選ぶ余裕が出来るわけです。

愛そうとするか、愛されようとするか、誰でもこの2つの思いは持っているはずですが、この2つの思いの配分によって結婚候補者の数は大きく変わります。だから、愛そうとする人には、より良い条件の相手を選ぶ余裕が出来るようになるわけです。


では、選ぶときに何で判断したらいいのでしょうか?

ちょっと思いつくところで
・お互いの目的が一致しているか?
・その目的が達成できそうな人か?
・目的達成するための忍耐力があるか?
・目的達成を応援してくれる人はいるか?
・そもそも、気が合うのか?
ってところでしょうか。

かなり漠然としています。人によって目的が様々ですから、具体的に書きづらいです。
私たち夫婦の願いことで、いくつか書いてみます。

1子供に対して、親子の深い情関係を作りたい

これは、明らかに自分と配偶者の親子関係が大切だと思います。子供は、自分の親が祖父母の事をどう考えているのかを感じながら、親への対し方を学んでいくのだと思います。
祖父母に対して不平を言う親の姿を見て育った子や、祖父母の話をしない親に育てられた子には、親に対して良い対応を期待できないと思います。祖父母と良い関係を作っていれば、子供も自然に親のようになっていくと思います。だから、親子関係の良い人を選ぶのが得策と思います。
でもマザコンはダメですね。親が子離れ出来ていない、親になりきれていないのですから、結婚したあと「あなたは私の優秀な息子に相応しくない!」って親から虐められてしまいます。

2忍耐力のある人を望む場合

これは判断が難しいですね。あまりにも忍耐力が身に付いていないと、子供を虐待しやすくなるそうです。5歳くらいまでの子供に暴力で怪我をさせる親は忍耐力が無さ過ぎと言われています。
一つの判断基準として、兄弟が多くて、兄弟関係の悪くない人なら、基礎的な忍耐力はあると見て良いと思っています。兄弟がいれば必ず我慢しながら、協調しながら育っているはず。それでも兄弟が絶縁状態でないなら、そこそこの忍耐力はあるのでしょう。
一人っ子の場合は、忍耐力の判断が難しいでしょうね。

3性格の違いを乗り越えてくれる人を見つけたい場合

これも、親子関係のいい人を選ぶ必要があるし、兄弟関係のいい人が理想です。
なぜ兄弟関係が重要かというと、兄弟愛の出発には親子の情があるからです。
「弟がいなければ大好きなお菓子を独り占めできるのに‥」と思ったとき、「お母さんが自分を愛してくれるように、お母さんは弟も愛している。だからお母さんが悲しまないように我慢しよう。」という思いで乗り越えます。そのように、小さい頃から親を通して相手を見る習慣が出来るのです。

これがあると、夫婦間にも自然に適用できるのです。妻と喧嘩をしても、妻のお母さんのことを考えて我慢したり、お母さんの目で見たら可愛い娘なんだとういことを発見したりします。
だから、兄弟関係のいい人は、夫婦げんかも乗り越え易くなります。

4その他

「あいつのせいで、俺はこんな目に遭っている」「あんな人と一緒では私は仕事しない!」などと、すぐに社会批判や他人に責任転嫁して、被害者意識の強い人は要注意です。口では上手なことを言っていても、真の責任感が弱いのです。
例えば、会社の社長なら、会社の業績のためにサービス残業しても文句は言いませんし、従業員が起こした問題も自分で解決しようとします。「主人意識」が強いのです。
でも従業員は、給料をもらえないと文句を言いますし、他の従業員が起こした問題の尻ぬぐいは嫌がりますし不平が多いのです。会社の主人と思っていないからです。

責任転嫁し易い人は、この主人意識が弱いため、被害者意識ですぐに不平不満になりやすいのです。
だから、何があっても「私が何とかする」と考えている人の方が安心だと思います。


お見合いがいいか恋愛がいいか?

これはどちらでも大差ないと思います。
ただ、
・応援者がいるか?
・第三者の目で相手を評価してもらっているか?
を考えると、お見合いの方が比較的安心感がありそうです。

家族の大反対を押し切って大恋愛で結婚した場合、夫婦間にトラブルがあると誰も仲介してくれないかもしれません。

また、第三者の目は重要だと感じます。自分は「あばたもえくぼ」になっているわけですからね。
特に幸せな家庭を築いてきた人の見る観点はそれなりのものがあると思います。自分が理想とするような家庭を親子2代で築いているような年長者をみつけて、見てもらうのも良いと思っています。


思いつくままに書きました。
また、自分のなかで整理されたら書き直して投稿するかもしれません。

繰り返しますが、「私はこうして結婚した」という話しではありません。決して「おすすめ」でも「正解」でもありません。

それから、「相手を選ぶ」という観点で書きましたが、当然ですがこれはそっくりそのまま自分に返ってきます。こんな事を書いている私自身も決して立派に出来ているわけではなく、自戒を込めて書いている状態です。
私の目から見て、妻はかなり理想に近いです。逆に、私は妻から見ると理想から遠いのかも知れません。努力が必要と自覚しています。

この話は、あくまでも私自身の勝手な理想であり、あるべき姿です。
この話しにケチをつけたり共感したりしながら、ご自身の家庭や、お子さんの結婚などを考える機会になればと願っています。
posted by こまもりパパ at 13:16 | Comment(0) | TrackBack(0) | 関係ない話

2007年11月08日

人類共通の夢

すっかりご無沙汰になってしまいました
何かと忙しかった上に、妻の母親が他界されたりで、ようやく落ち着きました。

お葬式でお坊さんからお話がありました。
「人生の目的について」の内容でした。
どんなお話が聞けるのかと期待していたら、「人生は、自分で選択して、如何に楽しむかが大切」だそうです。

このお坊さん、ちょっと平和ボケしてるんと違うかなって感じました。

世界中には楽しむことも出来ない人たちが大勢いて、たとえば、毎日満腹になるほど食べられる人は世界の3分の1しかいないし、子供に飲ませる薬を買えなかったり、地雷のある地域に住んでいたり、死や危険と隣り合わせの人が多いというのに‥‥。

他人のことはどうでも良い、自分中心の「人生の目的」なんてちょっと違うんじゃないかって思いました。少なくとも、お坊さんが言うことじゃないように思います。

人生の目的って考えるとなんだか哲学的で難しいけど、理想とか夢とかは世界共通じゃないかと思ったりします。

その夢というのは、
世界中から犯罪が無くなり、全ての人たちが思いやる気持ちと奉仕の精神を持ち、家庭も円満で、医学が進歩して重病が無くなり、科学も発達して事故も無く交通も通信も便利になり、世界中の人たちが兄弟姉妹のように仲良く遊び助けあい、そういう社会の中で、自分自身も、多くの人から思いやりを受けると同時に、多くの人の幸せを思いながら生活する。
そのような社会の中で、自分の才能を発揮しようとすれば、自ずと社会のためになるか、まわりを喜ばせる方向に進むはずです。そうして様々な個性がお互いに調和して、さらに楽しい社会になっていくことでしょう。

そんな実現不可能とも思われる理想は、世界中の万民が持っている共通の夢じゃないだろうかと考えます。

今は理想とはかけ離れた世の中ですけど、もし人類共通の夢だったら、いつかは実現するはずです。
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2007年09月04日

チームワークにはサッカーが一番だって

これまた知り合いから聞いた話ですが、
「子供にチームワークの大切さを教えたければサッカーで教えたらいい」そうです。

野球もサッカーも、ポジションが決まっていますし、個人の精神力やスキルが重要なのは同じです。でも、サッカーには、もう一つ重要な要素が必要だというのです、

サッカーは、ゲーム中、役割が時々刻々と変わり、誰かが動けば、今どこが手薄か、これから誰が何をしようとしているのか、自分に何が願われているのか、試合中、常に考えながらプレーをする必要があるスポーツで、だからこそ、チームメイトを信頼し、自分も信頼されていなければチームとしては強くなれないという話でした。

練習の時に思いやりの精神というかチームワークが必要なのは、どんなスポーツでも言えることでしょうけど、サッカーは試合中もそのことを考え続けるところが良いんだと言っていました。

だから、サッカーを指導するときは、思いやる心、失敗しても責めない心で、お互いのスキル(得意・不得意な分野)をよく理解してこそ強いチームが作れることを教えるそうです。

その話を聞いて、「なるほど」って思いました。私はサッカーの経験が無いのですが、とても分かる気がします。

息子がサッカーが好きで、「このスポーツなら心から応援したい」と思うようになりました。

今、世界中でサッカーがブームになっています。これは、もしかしたら素晴らしいことなのかも知れません。サッカーを通じて、仲間を信頼し、信頼される喜びを感じた人たちが、さらに世界に出て行って仲間を作るとしたら、世界が一つになりそうな..(大袈裟?)
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2007年08月30日

集中力だ!

こまもりと関係ないけど、

昨日の「ためしてガッテン」では集中力がテーマでした。

「集中するぞ! 頑張って集中するぞ!」ってやっても疲れるだけ。
「脳の中の必要ない機能を休ませる」のがコツだそうです。

計算なら、耳などの必要ない感覚を休めてしまうと、その分のエネルギーを必要な機能に充てられるらしい。

何かに集中しているときは他の変化に気がつかないもので、そのことからも、脳が休んでいることが分かるというのです。

この休ませる訓練と、休ませるための環境作りが重要らしい。
大自然の音や電車の中の音などは「聞こえているのに気にならない」点で、耳を休ませるのに効果があるそうです。
posted by こまもりパパ at 12:51 | Comment(0) | TrackBack(0) | 関係ない話