2008年06月03日

罪を憎んで、人を憎まず

というのは私の信条としている言葉の一つです。
孔子の言葉だそうです。

罪を犯した者を反省させることは大切だけれど、反省したらそれ以上の制裁を加えてはならないという意味です。

私は、小学校時代はいじめられっ子で、惨めな思いをしたことが大きくなっても深い心の傷として残っていました。

その心の傷が痛む度に、「力を付けて復讐したい」とか、誰かをいじめている人を見つけたら「あんな奴、生きている価値無い」とまで思うようになっていました。

でも、こんな汚い心を持った自分自身が嫌いでした。他人を憎まずに生きている人をうらやましく思いながらも、「自分がこんな汚い心になったのはイジメた奴らのせいだ」と思っていました。

そんな中、大学の時に出会った先輩の姿や、読んだ本の影響で、生き方が変わりました、というより、「自分自身が目指したい理想像」が見えてきました。

何の本で影響を受けたのかは分かりません。「自信を付ける」系の心理学の本はずいぶん読みましたし、哲学書(キルケゴールとか)も読みましたし、その影響で内村鑑三や聖書も読みました。

そういう中で自分の人生観を変えた言葉の一つが、孔子の「罪を憎んで、人を憎まず」という言葉でした。まさに、自分自身が「人をも憎んでいる」ことに気づかされたのでした。

イジメをしている人に対して、「生きている価値無い」とか「二度と大きな顔して社会に出られないように制裁を加えたい」などと思っている自分の姿は、「自分をいじめた人たちと同じじゃないか」と気づきました。

私自身が好き好んでこんな性格になった訳じゃないのと同様、彼らも誰かの影響で心に傷を持っているから、イジメをして発散しているんだと思うようになりました。
幼い頃から、多くの愛情を受け、多くの施しを受け、人を心から信じる環境で育つことが出来たら、きっと思いやりの気持ちに溢れて、イジメをしたいとは思わないだろうと思うようになりました。

そう考えると、自分自身も、自分をいじめた人も、「どちらも犠牲者だった」と同情の思いを持つようになったのです。

それ以来、きっと彼らにも「良心」があって、彼ら自身も「心が解放されていない」だけだと考えるようにしています。

でも、まだ心の傷は残ったままですから、時々いろんな思いが湧いてきます。でも、「自分が目指したい自分の姿」を見つけて以来、「過去の自分に戻りたくない」って思いが湧いてきて、軌道修正しようとしている自分がいます。

心が屈折しないで育った人と比べたら、私の心は未だに「歪(いびつ)」です。でも、過去の「人を憎んでいた」ときと比べたら、すごく開放されています。

それで、この世から「イジメっ子」を無くす活動をしたいと思うと同時に、「いじめられっ子」が次の「いじめっ子」にならないように活動したいと思っています。たぶん、虐待やDVも同様の原因が多いんじゃないかと思っています。

自分の心が解放されたきっかけは先輩の生きている姿とアドバイスでした。自分もその先輩と同じように影響を与える者になりたいと思っています。(傲慢?)




追記 2008.6.19

読み返してみて、誤解を受けそうな文章なので追記します。

犯罪者をすべて許すという話じゃありません。罪を犯した者には反省と謝罪(賠償)が必要ですし、被害者なら、そこまでは責めても罰は当たらないでしょう。それ以上責めるのは、人を憎んでいることなので良くないという話です。犯した罪の重さ次第だと思います。
でも、他人が被害者の気持ちを代弁して加害者を責める場合は難しいです。正義感のあまり、過剰に責めてしまいやすい気がします。

それから、私の好きな言葉だし目指していますが、私には遠い目標です。長い年月かけて作られた性格は、変えたくてもなかなか変われないものだと感じます。(悲)
posted by こまもりパパ at 10:02 | Comment(2) | TrackBack(0) | 関係ない話
この記事へのコメント
私も昔幼なじみたちから酷い虐めを受けていました。(実際今も引きずっています)今一番辛いと思うのは皆そのことを完全に忘れてしまっていることです。自分だけがなにか取り残された気がするわけです。自分で自分のことを否定してしまうのです、おかしいのは自分なんじゃないかってね。しかし大学での礼拝やキリスト教の講義を受けたりしてから、ふと思いました。皆が忘れてしまっても神さまは全てを知っておられると。相手側は本当に忘れてしまっています。幼稚園のときから小学校卒業するまでぶん殴っといて完全に忘れとるってどうかと思いますが。しかしそれでも付き合いも長いのでそいつのいいところも分からんでもないわけでして、そうなるともうそこは認めてやった方が良いと思うわけです。
Posted by 12434 at 2008年06月05日 00:38

12434さん、こんにちは

私にはその辛さの全ては理解できないでしょうけど、自分を虐めた相手のことを受け入れようとされているのは素晴らしいと思います。

私は迷ったときには、聖書の山上の垂訓を時々読みます。
「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなた方の天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」
このあたりを読むと、もう少し頑張ろうって力が湧いてきます。

神様はきっと何かの理由があって手を出されないのでしょうね。私の場合は40歳の頃、父は私以上のイジメで受けた心の傷を持ちながら、子供を愛そうと努力してくれたことを知ったとき、「この瞬間の感動と和解のために神様は小学生期に私を助けなかったんだな」と、神様の演出に感謝しました。
Posted by こまもりパパ at 2008年06月05日 13:14

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