なぜ人気があるのかは正直分かりませんが、ちょっとだけ分析をしてみました。

まず単語の数を茶筌(ChaSen)というソフトで調べてみたところ
単語 : 出現回数
----------------
学校 :246
部屋 :221
授業 :60
高校 :59
教室 :130
電話 :295
携帯 :103
好き :210
大好き:108
キス :118
妊娠 :31
レイプ:20
中絶 :14
----------------
ということから、学校で携帯電話をよく利用するという、読者の身近な場所の話になっています。また、好きか嫌いかは彼女らにはとても重要なことのようです。
また、キスシーンやキスの話題が100回以上もあることも、女子高生や女子中学生を引きつけるのでしょう。

キスの描写は数え切れない程ありますが、もっと過激なものも多数あります。掲載するのも恥ずかしいのですが、一部を紹介します。
(ページ番号のリンクから該当ページを見ることが出来ます)

何度も繰り返し、
…ヒロの熱い舌が
入ってくる。
10分くらい唇を合わせるとヒロは美嘉をお姫様だっこし、
ベッドまで運んだ。
(中略)
初めて触れた男の人の体はとても大きくて

「ねぇ〜ヒロはしたいとか思わないの??」
(中略)
「何を?」
「……エッチ!!」
(中略)
美嘉をベッドまで運び、体をそっと倒す。
(中略)
ヒロはゆっくり時間をかけて抱いてくれた。

眩しい夕日が
図書室全体を照らす。
(中略)
美嘉の体を持ち上げ机の上に座らせ
(中略)
ヒロの手が制服のスカートをまくりあげフトモモを撫でる。
「やっ…外から見えちゃうよ!!」
フトモモを撫でるヒロの手を強くおさえた。
「見せ付けてやろうぜ」
(中略)
いつの間にかグラウンドには誰一人いなくなり、部活動を終えた生徒が
教室に着替えに来る時間…。
(中略)
気持ちいい。
だけど声を出したらバレてしまう…。
(中略)
二人はそのまま図書室で愛し合った。
放課後の
図書室で…。

ノゾムがアヤに馬乗りになり強引にシンナーを吸わせている。
(中略)
立ち上がろうとした時、隣にいた金髪の男が美嘉の頭を強い力でおさえ口にビニール袋をあててきた。
(中略)
男はうつろな目のまま
スカートの中に手を入れてくる。
(中略)
下着の中には手が入ってくる。
(中略)
その唇で美嘉に優しくキスをし…
細くて長い指で美嘉の体をなぞってくれた。

落ち込む美嘉に声を掛けてきたのは、
おそらく40代後半くらいの黒いスーツを着た少し太ったおじさん。
(中略)
「意味わかる?…10万。おじさん偉い人だから」
(中略)
入ったのはピンク色のお城のようなラブホテル。
広い部屋の真ん中には大きくてふかふかの白いベッド。
制服のリボンをはずし
ベッドに横になった。
「ルーズソックスがそそるね〜!」
体の上に
覆い被さるおじさん。

ワイシャツのボタンを一つずつはずし、
唇は体へと移動する…。
(中略)
優の手は
スカートの中へと伸びてゆく。
(中略)
「ダ、ダメっ……」
(中略)
優の右手は下着をそっと脱がし…
細くて長い指がゆっくりと入ってきた。
「…ぁあっ…………」
(中略)
優の指はどんどん奥まで入り、
優しくゆっくりと動く。
そのたびに体が反応し
声が漏れ…
こういう描写は全体のごく一部ですが、全体で100回を超えるキスの描写や話題も含めて、ちょっと無視できないかなと思います。
ネット関係の雑誌や経済人たちのブログを見ると、「ケータイ小説は携帯の新しい文化だからフィルタリングなどでその芽を摘んではいけない」という記事が多いです。(何を考えているんだ!)
もちろん、ケータイ小説の全てがこんな感じだとは言いませんが、全般的にかなり過激な表現が目立ちます。
「恋空」は、私には、小説じゃなくて「有害情報」に思えます。
うちの娘には読ませたくないです。
皆さん、こういう無料のケータイ小説が女子中学生や女子高生の中で爆発的に流行っていること、どう思われますか?
たしかに、「小説じゃない」というのは不適切だった気がしました。
ついつい、勢いで言い過ぎてしまうというのは気をつけないといけませんね。
こういう小説は、中学生には有害情報、高校生には微妙なところ、大人には悪影響は少ないと言ったところでしょうか。
私は「恋愛」とか「男女の愛」というのは高度な情関係だと思っています。そこには、兄妹、姉弟の情関係が基本で、時々、父娘、母息子、恋人になるくらいがいいと思っています。
でも最近は、親子関係や兄弟関係が疎遠で、恋人とは常にべたべたしていないと不安というカップルが多いのを耳にします。せめて中学生期やできれば高校生期も家族愛や兄弟愛や友情の大切さを実感してもらいたいです。
それが当たり前の世の中になったら、ストーカーや離婚などが減るだろう思います。
しかし、それをフィルタリングしてしまえというのは問題でしょう。ましてや通信会社に検閲を義務づけるというのは大問題です。
例えばですが、現在の通信会社のフィルタリングを是認すると子まもり.comもアクセス不可となりますよ。
仰るとおりだと思います。
こまもり.comが規制されるのは構わないですけどね。これを子供に見せると、寝た子を起こすことになったり、反発されたりして良くないので、これも有害サイトかも。(笑)
まあ、そのことはいいとして。
私も、フィルタリングについては、何でもかんでも規制するというのは反対です。良い悪いの判断基準を明確にして、それに従って規制するのが目指す姿だと思っています。
ただ、選別が難しい現在はどうすべきかという点で、規制急進派と規制反対派が大きく別れていると思います。
自殺まで考えるほど傷ついている子供達が少なくないことを考えれば、しばらく利便性は失われても、まず規制するしかないというのが私の考えです。そして、フィルタリング技術が進歩したら規制を解いていくのが良いと考えています。
それから、検閲についても仰るとおり、通信会社は機能を提供する責任だけで、実際はサービス提供会社が行うべきだと思っています。最近は企業もCSRを重視するようになってきましたが、社会貢献を無視した利己主義のビジネスは困ります。
http://kangaeru.s59.xrea.com/G-Jisatu.htm
現在年間3万人と言われる自殺者のうち近年の増加に関しては、不景気や雇用の変化で割を食った労働者が中心と思われます。
もう一つは、自殺サイトと呼ばれるものが実際の自殺にどれだけ影響しているのかは、今のところ不明瞭であるという事(少なくとも統計を見る限りでは、子どもの自殺を助長してはいません)。また逆にそういったサイトで悩みを打ち明ける事で自殺を思いとどまる可能性だってあるという事。ここは調査が待たれるところですが、ネットを規制したくてしょうがない勢力によって恣意的な調査が行われるかもしれません。
そしてそれ以前の問題として、「有害情報」が子どもにいかなる影響を与えるのかという部分を考慮しないまま、自分にとっての印象の悪さだけで有害と言ってしまう事には問題があると思いますよ。
コメントありがとうございます。
仰ることは分かりますし、たしかに理屈も通っています。
でも心情的に、「有害情報」が子供にいかなる影響を与えるかが明確になるような、そのような統計データが揃うのを私は待っていられないのです。
それに、子供は簡単には自殺しないと思っています。私は小学校4年生まではかなり陰湿ないじめを受けていて(簡単にブログに書きました)、自殺は常に意識していながらもいつも思いとどまりました。
卒業まで忍耐したら、大人になったら必ず解放されるという希望を持っていたからです。
でも、友達は出来ませんでしたし、孤独なまま小学生時代は終わってしまいました。その6年間で、私は他人の視線ばかり気になる臆病な性格が出来上がってしまいました。
親としては、自分の子供には同じような目に遭わせたくないし、それはどこの親でも同じだと思っています。
ですから、十分に因果関係が証明できる程の統計データが揃うのを待っていられないのです。それには多くの犠牲者が現れるのを待たなければならないからです。
こういう場合、経験や感性などで予測することが重要だと考えています。それは、起業家が誰かの成功事例を待っていたら遅れを取るのと似ていると思います。
もし「有害情報」の悪影響を疑っておられるのなら、私が自分の子供に規制をしているように、まずは、黒屋ぶるーさんのお子さんに様々な「有害情報」を与え続けて確認してみたらいいと思います。お子さんがいらっしゃらなければ、親戚の子供とか身内で試すべきでしょう。親の承諾が必要ですけど。
身内が良いのは、他人に対しては誰でも無責任になりやすいですからです。
「まだ有害だとは証明されていない」という視点では黒屋ぶるーさんの話がもっともです。
でも、親の心情としては、「無害だと確信できない」あいだは心配で不安なんですよ。
携帯小説がこんなひどい内容だと初めて知りました。規制すべきと考えます。
仰るとおりケータイ小説の中には規制したくなるものが少なくありません。
ケータイ小説からは、素晴らしい小説が現れないとまでは断言できませんが、現在の読者層を考えると、存在しても埋没したままになりそうです。
ただ、規制については反発も予想され悩ましいところです。だからせめて、分類だけでもしてもらいたいですね。
「18禁」や「12禁」とか、「露骨な性描写あり」、「殺人の描写あり」とかが読む前に分かれば、見ない子もいるでしょう。
現在は、具体的な性行為表現に触れたくないと思っている子だって、評判だけ聞いて読んでしまいます。
「ここをクリックすると動物の虐待動画が見られます」と一言書いてあれば見ずに済むのと同じです。
子供にだって、読む前に選別する権利があって良いのではないかと思います。
自分の家庭内で行うべきという考え方や、分類の必要性についてはよく分かりますし、大意としては同意できます。
しかし、貴方の有害/無害という考え方には大いに疑問があります。
まずあるものについて悪影響が一切ない事を証明するのは「悪魔の証明」といって原理的に不可能な事ですので、有害だと証明されるまでは、少なくとも公的には無害ということにしておかざるを得ません(そうでなければ、大衆や権力者の気に食わないものはなんでも有害ということに出来ますし、実際にそれをやったのが人種差別やら禁酒法といったものでしょう)。
第一、実際にケータイ小説やら自殺サイトやらに何の悪影響もないかといえば、そんなことはないでしょう。その大小を問わなければなんらかの悪影響は存在すると思います。
ですから、「無害だと確信できる」ようになる日は永遠に来ないでしょう。
しかし、「なんらかの悪影響がある」というのは世の中の大抵のものに当てはまる特徴でもあります。
ニュース番組の悪影響
包丁の悪影響
外で体を動かす事の悪影響
とかね。
我々がそのような悪影響について普段気にしないように、貴方が仰る悪影響についても、それが決定的なものであるか分からない以上は、どこかに落としどころを見つける必要があります。
また、フィルタリング否定論者についてこの様な批判をなさっていましたが、
>「新しい文化が成熟するためには犠牲も仕方ない」
実際に「いかなる文化も、その発展において一人の犠牲者も出してはならない」なんて事を言い始めると、文化なんてものは育たないでしょう。
その最たる例が自動車で、あれは発展の過程だけでなく、現行でも(免許制という規制があってもなお)国内だけで年間千人単位の死傷者を出しているわけです(その中には子どもも多数含まれるでしょう)。
逆に言えば、我々はそれだけ多大な犠牲を払ってでも自動車普及のメリットを優先させている事になります。
という事実を踏まえると、なぜある情報に対して有害という言い方をする人(貴方に限りません)が、遥かに被害が大きいはずの自動車やその他の文化の害については何も言わないのか、そういう人たちは実際の被害の大小よりも、自分にとっての印象の悪さで有害/無害を判断しているのではないかと私は思ってしまうのです。
また、貴方は比較的穏健な考え方をなされているようですが、世の中には(有害図書撲滅さんや、上の有害応援団さんのように)印象が悪い→有害→即刻規制すべき という短絡的な思考をなさる方や、
省庁の天下り先確保のために、必要もない制団体を作ろうと目論み、そのために貴方のような「善意の一般市民」の声を取り込もうとするお偉いさんというのも存在します。
貴方が仰るところの「有害」について何の警戒もするな、と言っている訳ではありません。
しかし心配というものはしだすとキリがないものですし、貴方のやっている事が他の人の不安を増大させて、新しい文化の発展を阻害している可能性がある事は分かっていただきたい。
では、長文失礼しました。
>省庁の天下り先確保のために、必要もない制団体を作ろうと目論み
制団体→規制団体 です。文章直してるうちに削除しすぎました。
では失礼。
本格的なコメント、嬉しいです。
読ませていただいて気がついたのが、私の文章力の足り無さで伝わらなかった部分が多いことと、黒屋ぶるーさんの考え方と大きな違いは無いように感じました。
まず言葉の足り無さですが、「悪魔の証明」を避けるために「無害と証明できる」と書かずに「無害だと確信できる」と表現しましたが、それよりも「きっと無害だろうと思える」と書く方が私が言いたかった意味に近かったです。たとえば、「玄関に鍵をかけておけば、子供だけでも大丈夫だろう」ってくらいの安心感のことを言いたかったのです。
だから仰るとおり「落としどころを見つける」ことになると、私も思っています。そしてその「安心できる落としどころ」は、将来、社会の変化に従って変わると思います。
それから自動車のことですが、「自動車」自体の問題よりも「運転する人間」の問題で事故が多いのだろうと思っています
自動車も、ABSやバックカメラが付いたり、飲酒や居眠り防止装置の研究など大いに進めてもらいたいですが、一番の問題は人間だから、「免許制」の見直しが研究されるべきだと思っています。
そういう意味で、適性検査が重視されるべきだし、危険性の高い違反の罰則強化とかも必要でしょう。狭い住宅街で急加速したり、減速もせずクラクションで歩行者をどかせる運転者などを、適性検査で発見できるような研究や、装備の研究が必要です。
年齢条件だって今のままで良いのか、年齢がどれ程重要なのかも議論されて良いでしょう。
自動車と同様、携帯電話のWeb機能が悪いのではなくて、携帯電話を使う人の適正に問題があると思っています。適正があれば使って構わないと思っています。
だから子供だと言うだけで一律規制という訳にいかないのですよね。
学校裏サイトだって適正な子だけなら問題ないでしょう。
問題を起こしているのは、
・密かにいじめを楽しんでいる屈折した性格の子
・仕返しのときに、無関係な普段の鬱憤まで乗っけて、100倍にして返す子
・矛先が自分に向かないように、今の虐めの話題に加わって平然と話を長引かせる子
などでしょう。
(TVやラジオの特集で何度も子供たちから聞いた話です)
そのような適正に問題のある利用者を排除出来れば、多くの規制は必要ないのだと思います。
そういう意味では、黒屋ぶるーさんのお考えと大きな違いは無いかも、と思っています。
問題のある子に携帯電話を使わせないように出来れば安全になるのですが、それが難しい気がします。
当面は「規制」の方向しか思いつかないという現状です。
だから、規制というのは、私にとっての現時点での「落としどころ」なのです。
もし年齢や学年で分けるしかないのであれば、運転適正者の割合を考えて18歳となっているように、フィルタリングも、利用適正者の割合で年齢を決めることになるのだろうと思っています。
私自身、Windows3.1の時代にMosaicというブラウザやネットニュース(今はほぼ絶滅?)などを楽しんでいた新しい物好きのヲタクIT技術者で、ここ10年は主に社内Webアプリの開発をしていますから、IT大好きです。当然、携帯を含む新しい文化は推進したいうちの一人です。
でも、悔しいけど、子供の安全と両立できる妙案が思いつきません。
恋空が有害情報であるという意見に私は賛成します。
記事内では、過激な性的描写が有害情報である理由としているようですが、実際のところはもっとありますよね。
その一つを取り上げれば。恋空に出てくるキャラクターのうち数人は違法した犯罪者です。その犯罪者が正しく断罪されているのならば反面教師として成り立つでしょうが、恋空ではむしろ犯罪が美化されている箇所が多い。
これは犯罪だ、いけないことだ、こんなのおかしい、と思えるだけの知識や判断力が読者にあれば、フィクションの物語として見れば問題はないのでしょう。ですが、恋空を好む読者の多くは、それができない年齢の人ばかり。特に恋空を実話と信じているファンは、飲酒運転や違法薬物の投与などの行為が間違ったものであるという認識が出来なくなってしまう可能性があるのではと思います。勿論、その証明など出来ませんが、だから放置して良い、放置するしかない、ということにはならないでしょう。
問題が起こる前の対策(もうかなり遅いでしょうが)としての、フィルタリングなどの規制も仕方ないのだと思います。
例えば、本文中の性的描写、違法行為が有害であるという意見を作者側(作者本人や出版社など)が受け入れ、問題の文章を削るなりして改善させるのならその必要もないのでしょうが、作者側はそういった批判意見はほぼ無視を決め込んでいるのが恋空です。映画恋空などの公式感想板では、たった一言でも否定的な意味合いの含まれている感想は掲載しない、という徹底ぶり。作者のブログでも、各所で起きていた恋空に関する議論に対し『批判的な意見もあるかも知れない』程度の言葉で済ませています。
仮に、ケータイ小説が携帯電話の新しい文化である、という意見を肯定するとして。この作者側の態度ではまるで『ケータイ小説には性的描写や違法描写が不可欠なものである』と言っているようにすら思えてしまいます。そんな文化、栄えて欲しくなどありません。栄えて欲しいと思っているのは、自分の地位や金だけが目当ての大人と、それに踊らされている子供と、他に誰かいるのでしょうか?
上で自動車の問題と比較して語られていますが、少し首を傾げてしまいます。自動車と言えば、私が生まれるずっと前から栄えだし、一定の生活には不可欠と思われる程根付いてしまっている物です。既にただ取り上げれば済むものではないでしょうし、どんな運動をしたとしても、よほど画期的なシステムでも生まれない限り、問題の削減以上のことは出来ないのだと思います。
一方恋空や、問題のあるケータイ小説などは、まだ生まれたばかりで、自動車ほど生活に根付いてはいません。今なら問題の完全除去も、手間はあっても出来ないことはないでしょう。けれどいつまでも放っておけば、例えば携帯電話のように肌身離さず持っていなければ気が済まない、なんて人が出てきて、問題を完全に無くすことが出来なくなってしまうかも知れない。そうなってしまえばもう手遅れです。
そもそも『他にも問題はあるのに恋空・ケータイ小説だけ過敏に批判するなんておかしい』なんて意見はそれこそおかしい。問題が数あるからこそ、手が届くところから始めていかなければならないのに。
小説ではない、というのは、小説としての作法が全くと言っていい程出来ていないという点で賛成します。成功者に対する嫉妬のような感情なので少々恥ずかしいのですが、あんな、友達同士のメールの遣り取りのような気軽さで書かれた話がここまで成功してしまったという事実を前に、それも仕方ないと感じてしまいました。
長々と乱文失礼しました。
私自身、恋空を読んでいて、シンナーとか妊娠とかかあまりにも自然な感じで書かれているのに違和感を覚え、この違和感は何だろうかともやもやした気持ちでした。
たしかに、言われてみれば、子供達にとっては最初に見聞きする情報の質が重要ですから、そういう点で問題が多いですね。それは大人でも同じで、最初に聞いた話が偏見に満ちたものであれば、それ以降は色眼鏡で見てしまいやすいですから。
恋空を読むことによる弊害は、すぐに現れなくても、確実に子供達の価値観に多大な影響を与えそうです。
幸月さんのコメントで、もやもやした気持ちが何だったのかが整理されてきました。ありがとうございました。
率直な意見はありがたいです。
「人間楽しむことは大事」というのは同感です。それも、出来れば「良心の呵責無く、心の底から楽しめる」のが良いと思っています。
常々思うことですが、「良心の呵責」って年を重ねるに従いボディブローのように少しずつ効いてくるんですよ。「あ〜、また一言多かった」とか「あいつに悪いことしちゃったなぁ」とか。1つ1つは小さな後悔ですが、いつしか「俺ってこの程度の器だな」って、自分に誇りが持てなくなっていきます。
そして、子供に対して「お父さんは、こうあるべきだと思う」なんて話が出来なくなります。「じゃあ、お父さんはどうなの?」って聞かれるのが怖いから。
寂しいですよ。(実感がこもってます)
ところで、有害の基準も様々ですよね。キスシーンも子供には見せたくない人もいれば、人間と動物の性行為を平気で楽しんでいる人もいて、大きな幅があります。有害の基準を決めるのは難しいですね。
それに、子供の成長に合わせて有害と無害の基準がかわると思うし。
漠然と思うことは、最初に見聞きする話は、不幸につながる話ではなく、幸せをつかめる話であるのが良いと思ってます。それが、その人の基準点になるからです。
例えば、人を信じることと、疑うことのどちらを先に知るかと考えると、信じることを先に知るべきだと思ってます。
その基準が立てば、その後は、俗っぽいや悪いことを聞いても大丈夫なんじゃないかと思ってます。
すいません、回答になってませんね。
>ですが、恋空を好む読者の多くは、それができない年齢の人ばかり。特に恋空を実話と信じているファンは、飲酒運転や違法薬物の投与などの行為が間違ったものであるという認識が出来なくなってしまう可能性があるのではと思います。
つまり恋空というかケータイ小説に限らず、違法行為を描写している作品は、いかに文学的評価の高い名著であっても、全て年齢制限をつけなければならないという事でよろしいですね?
それとも、歴史的な名著であれば「行為が間違ったものであるという認識が出来なくなってしまう可能性」がなくなるなどという事がありうるのでしょうか?
>この作者側の態度ではまるで『ケータイ小説には性的描写や違法描写が不可欠なものである』と言っているようにすら思えてしまいます。そんな文化、栄えて欲しくなどありません。
葛飾北斎が春画を描いてたのは有名な話ですが、それもダメ?
遊郭なんかは非常に性的な施設でありながら「独自の文化」と見なす向きが強いですけど、それは?
こういう事を仰る方は、どうしてインモラルだらけの古い文学・芸術作品の存在を無視なさるのでしょうか?
>まだ生まれたばかりで、自動車ほど生活に根付いてはいません。今なら問題の完全除去も、手間はあっても出来ないことはないでしょう。けれどいつまでも放っておけば、例えば携帯電話のように肌身離さず持っていなければ気が済まない、なんて人が出てきて、問題を完全に無くすことが出来なくなってしまうかも知れない。そうなってしまえばもう手遅れです。
だから、放置したとして自動車のそれに匹敵するほどの問題が起こるのか、という話なんですけどね。
まるで若者の大半が小説に書いてあることをそのまま実行してしまうかのような言い分ですが、そんなことをするのは余程の阿呆だけでしょうよ。
そんな些細な問題をいちいち気にする人が、なんで車について「すでに定着しているものだから仕方ない」で済ませるのでしょうか。
古いものだからといって正当化されるのは一種の権威主義的発想で、文化という面から考えればむしろそっちのほうが非常に危険だと私は思うのですがね。
>そもそも『他にも問題はあるのに恋空・ケータイ小説だけ過敏に批判するなんておかしい』なんて意見はそれこそおかしい。
上記の通り、「ケータイ小説はそれほど問題が大きいのか、些細な事をいちいち問題にする人が、なぜそれと比較してより大きな問題については目を向けないのか」という話なのですがね。
それこそ車の喩えでなくとも、12434さんの言を借りれば「人が殺されるサスペンスドラマや時代劇は有害情報じゃないんでしょうかね。」って話です。
はっきり言ってしまえば、「有害」を禁止するのは子どものためではありません。親が、自分の子どもが「無害・有益」なものにだけ触れている事を確認して安心するためであります。
そしてその行為は、親の有害/無害の基準如何で、むしろ子ども(あるいは社会)にとって、本当の意味で有害となりうる場合だってあるでしょう。
時と場所によっては、病人を「穢れている」といって差別的に扱ったり、不倫をした人に大衆が石をぶつけて殺すような行為だって許容されるのですから。
私は、管理人さんのように当人の家庭内での禁止に止まるのなら問題はないと思います。
問題は、こちらに来た人ですと有害図書撲滅さんがそうですが、こちらに書かれた文章を「公的な制度としての禁止」の正当化を裏付けるものと勝手に読み替える人がいて、それを管理人さんが当然のように受け入れてしまうという事です。
それとも、歴史的な名著であれば「行為が間違ったものであるという認識が出来なくなってしまう可能性」がなくなるなどという事がありうるのでしょうか?
恋空で最も問題視されるのが、間違った行為が断罪されない(むしろ美化されている)という点です。
文学において殺人、ドラッグなど違法行為を題材にした物語は珍しくないでしょう。ただ、そういった類の話は大なり小なり勧善懲悪が成り立っています。つまり、恋空において正しく行われていない断罪がしっかりなされている、と言うことです。
そうでないもの――最終的に悪事を働いた者が成功してしまうような話は一般市場に流れて良い物ではなく、存在したとしても年齢制限が付くのが当然であり、これまでもそうだったはずです。上手い例は挙げられないのですが、テレビゲームなどでも、プレイヤーが罪もない人や警察(またはそれに相当する役)などを殺せるような要素のある物には相応の年齢制限が付いています。
過去の芸術作品に性的描写がある、というのも確かにあるでしょう。小学生の教科書に裸婦画が載っている、なんてこともざらです。けれど、それらとケータイ小説、恋空は一緒くたには出来ないと思います。
恋空が中高生をターゲットとして売り出された物であることはもうご存じかと思われますが、その方法に問題があります。
現代の中高生にとって『流行』という物はかなり重視されます。流行に乗り遅れたら友達の話に着いていけない、もしかしたら仲間はずれにされてしまうかも知れない……そう言った意識が強く存在します。
そして恋空はそこを上手く突いています。恋空やケータイ小説が、活字離れの激しい中高生向けに読みやすい文体で書かれていたこと、中高生の必需品のような携帯電話という媒体から発祥した物であること、恋空が中高生のリアルである、などという売り文句がティーン向け雑誌などで大量に出回っていること、など、挙げればまだあるのでしょうが。そうやって中高生の間の流行に恋空を乗せて、中高生の意識に浸透させていったのです。
過去の芸術作品にはそんな手法は施されていません。故にそれらが流行に乗ることもなければ、恋空やケータイ小説のように爆発的なまでに広がり、過度の支持を得ることも自然には有り得ないでしょう。それらと恋空は全く別の物であるという認識を持たなくてはならないのだと思います。
>葛飾北斎が春画を描いてたのは有名な話ですが、それもダメ?
遊郭なんかは非常に性的な施設でありながら「独自の文化」と見なす向きが強いですけど、それは?
こういう事を仰る方は、どうしてインモラルだらけの古い文学・芸術作品の存在を無視なさるのでしょうか?
ここについては少々補足が必要のようですが。私が栄えて欲しくないのは、間違った性的描写や違法行為が正義である(悪ではない)と説く文化であり、それらが相応の年齢制限が付けられない状態で放置されているのはおかしい、ということです。
遊郭などもまた引き合いに出せる物ではないでしょう。上記の理由もありますし、それに恋空は学生の小遣いでも十分に手が出せる代物であるということが問題の一端です。一番有害であると思われる原作に至っては無料閲覧が可能ですから。もっと言うなら、今は遊郭という施設はありませんし、その特性を継ぐ現代の施設には然るべき年齢制限があるはずです。
>まるで若者の大半が小説に書いてあることをそのまま実行してしまうかのような言い分ですが、そんなことをするのは余程の阿呆だけでしょうよ。
その余程の阿呆がいない、現れないという証拠もなければ、数を調べることもできません(私から見たらですが、決して少数ではないと思います)。減りはしたようですが、未だに恋空は実話だと信じる人も実際にいるくらいですからね。実際に起こるか、それがどの程度の規模なのかは別の話として、問題が予測出来た上で防ぐことが可能ならば防ぐ。これはいけないことでしょうか?
>そんな些細な問題をいちいち気にする人が、なんで車について「すでに定着しているものだから仕方ない」で済ませるのでしょうか。
古いものだからといって正当化されるのは一種の権威主義的発想で、文化という面から考えればむしろそっちのほうが非常に危険だと私は思うのですがね。
古いものだから正当化している、と言う訳ではありませんし、定着したから仕方ない放置しよう、などとも考えていません。今確認できる問題は問題として可能な限り排除すべきです。あまりに深く根付いてしまったために、現在の技術や発想ではどうしても取り去れなくなってしまった問題については保留とするしかない、と言っているのです。
>12434さんの言を借りれば「人が殺されるサスペンスドラマや時代劇は有害情報じゃないんでしょうかね。」って話です。
一般のサスペンスドラマ、また推理小説などで人が殺されることはよくありますが、その多くは、殺された人間があまりにも酷い仕打ちを誰かにしてきたとか、あるいは人を殺した犯人が逮捕されるなりで断罪されるものですから、違法行為を助長する物でないので有害とは言い切れません。時代劇にしても、正義を行う役人がバッタバッタと斬り殺されたりはしませんし、殺されたとすればその犯人一味は確実にその罪を償う構成になっています。この構成としては、話題沸騰し映画化した漫画『DEATH NOTE』などが良い例でしょう。
勧善懲悪を守る作品、言い換えれば反面教師的な要素を孕んだ作品は有害とは思えませんし、批判や規制も必要なものではないでしょう(血が飛び散るなどのグロテスク要素は別の話ですが)。そうなっていない恋空とは比較できるものではありません。
>はっきり言ってしまえば、「有害」を禁止するのは子どものためではありません。親が、自分の子どもが「無害・有益」なものにだけ触れている事を確認して安心するためであります。
「有害」を禁止するのは『必ずしも』子どもためではない、ではないのですか? それならば私も妥協できるでしょう。
有害無害は親が判断する物である。それも間違ってはいないのでしょうが、明らかに有害である物を社会が禁止しない理由が私には分かりません。それこそ、商業意識が不当に邪魔をしているようにしか思えません。
>時と場所によっては、病人を「穢れている」といって差別的に扱ったり、不倫をした人に大衆が石をぶつけて殺すような行為だって許容されるのですから。
時と場合によっては、でしょう? 物語上、そして読者に対し、その『時と場合』が全くと言っていい程配慮されていないのが恋空です。その判断力が恋空のような有害情報によって身に付かず、今の子どもがいずれ問題を起こさないという確証はありますか? 問題が起こる確証がないからと大人が放置し、未然に防ぐことを止め、その所為で若者が社会的・法律的な悪に成り得ないという確証は?
事が起きてしまったあと、『これだから今時の若者は……』なんて一方的な責任転換を、私はして欲しくないのです。
いるでしょうね。自分の子どもがこんなコトするはずがない、きっとあの漫画の所為だ、あのゲームの所為だ、テレビ番組の所為だ、などと言う親も。それだけを主張して自分に責任があったかどうかを考えないのは愚かしい限りです。けれど、その主張だって全くの見当違いという訳でもないでしょう。過激な内容の本やゲームがきっかけになることは十分有り得ますから。親や周囲の責任がない訳ではない(むしろそれが大部分である場合がほとんどかも知れない)が、物も無関係ではない、そう言うことだと思います。親の主張通り、その本やゲームがなければ事が起こらなかったかも知れない、というケースもあるはずです。
例えば、その事件で初めて有害性を問われるような物ならば、規制すべきかどうかは検討する必要があるでしょうが、恋空などは既に問題性が指摘されています。あーやっぱり起こっちゃった、じゃあ規制しましょう……では、遅くないですか? そのケースなら親が怒るのも無理はないですよ。
>あと皮肉と言うなら去年犯人がキラと名乗った殺人事件が国外でありましたし、少なくとも犯罪に肯定的でなければ良いと言うのは偏見です。
自称キラの猟奇殺人について軽く調べましたが、犯人の素性なんかは見つかりませんでした。これの犯人が未成年ならば兎も角、成人だというのなら年齢規制どうこうの話ではなくなるのですが。
犯人がどの年齢層であれ、確かに、必ずしも『勧善懲悪の構造=完全無害』であるとは言えないようですね。けれど、あの漫画の有害性を重視して規制を行った国もあるようです。勧善懲悪であるか否かは別として、問題に発展する可能性が有るか否かを見た時、有ると判断したからこその規制なのでしょう。勿論、そこに確証などあるはずはありません。
これは、可能性が発覚した時点――早期での規制です。日本も真似しましょうとは思わないけれど、それくらい行動力がある社会の方が理想だと私は考えます。
>GTAのようなグロテスクなゲームより、仮面ライダーみたいなヒーロー物の方が子どもを暴力的にすると言う研究成果も出ているんですよ。
GTAは知らなかったので探してみましたが、あれは公式ホームページからして年齢制限が掛けられてますね。どの年齢の子どもを対象にした研究かは知りませんが(18歳未満ならそれはそれで問題な気がしますが)、要するに、比較したのは『ヒーロー物』と『年齢規制がされている(と被験者も分かる・知っている)ゲーム』なんですね。これでは今件とは話が違ってきます。『ヒーロー物』と『年齢制限が付けられるべき内容だが付けられていない(或いは被験者がそうだと認識できない)本、ゲーム等』ならば問題ありませんが。
>「これが有害だ!」と決め付けられるのはまだ早過ぎるかと。
恋空やケータイ小説の有害無害を決めつけるのがまだ早いというのなら、いつなら良いのでしょうか? 取り返しの付かない問題が起きてからですか?
昨年あたり、ホームレスへの暴行で逮捕された中学生の行動原理は確か「奴らは社会にとって必要のない人間だから」みたいな事だったと思いますけど。
それは(言い訳としてい言っているのでなければ)非常にゆがんだ形であれ、勧善懲悪の発想なんじゃないですかね?
また勧善懲悪が必ずしも反面教師としての役割を担っている訳でもないでしょう。
忠臣蔵なんか、最後主人公たちは処刑されるわけですけど、あれを見て「人殺しはいけないという教訓」と捉える人なんてそんなにいるのでしょうか。
あれは処刑されるという末路も含めて、忠義を尽くす事の美しさや儚さに感動するための作品じゃないですかね?
更に
http://www.bpo.gr.jp/youth/index.html
BPOの「視聴者からの意見」を見る限り、勧善懲悪でも暴力はダメだ、という意見も少なからずありますよ。
と言う点は既にある程度話されているようですのでこの辺にして。
>これは、可能性が発覚した時点――早期での規制です。日本も真似しましょうとは思わないけれど、それくらい行動力がある社会の方が理想だと私は考えます。
早期での規制は、いつかは規制解除されなければ表現の弾圧にしかなりませんよ。
何が悪いのか、規制にプラスの効果があるのかという点を検証しないまま規制したきりというのは、規模の違いこそあれ、ナチスのユダヤ人弾圧と同じでしょう。
現行でも有害図書制度みたいに、「なんか悪そうだから」という理由で規制が行われてるものは結構ありますけど、規制の効果について検証される事もなければ規制が緩和される事もなく、むしろ「有害」とされるものがどんどん増えて(これは「有害」物の変化ではなく、「何を有害とするか」という意識の変化です。)規制が厳しくなる一方ですけど。
やったらやりっぱなし、それで青少年がどうなったかとか、効果がないからやめにしようという反省が一切ない。
(私は「今の青少年は良くなっている」と言えるある程度の情報を持っていますが、それと「有害」規制の効果を結びつけるだけの裏づけについては知りません。)
これが真っ当な政策だというなら、この世は文句つけたモン勝ちですね。自由なんてありゃしない。
流行に乗った手法だから芸術と違うので規制、というのも理解しかねます。
それはつまり、恋空の影響で安易なセックスやドラッグに手を出す輩が出たら責任は恋空サイドにあるけど、
高名な芸術家が描いた裸婦の絵に影響されて性犯罪に手を染める輩が出てもそれは犯人自身の責任、ということですよね?
流行に乗っていようがいなかろうが、悪影響に対する責任がどこにあるかなんて問題には関わりがないでしょうよ。
>恋空やケータイ小説のように爆発的なまでに広がり、過度の支持を得ることも自然には有り得ないでしょう。
そうですか?裸体の彫刻なんか、いくつかは教科書に載る程度の支持は受けてますけど?ミロのビーナスとか(あれは半裸ですけど)。
また逆に、爆発的に広がる事で支持と同程度の反発も受ける事があるというのは、恋空自体が一番いい例となっていますけど?
>最終的に悪事を働いた者が成功してしまうような話は一般市場に流れて良い物ではなく、存在したとしても年齢制限が付くのが当然であり、これまでもそうだったはずです。
いや、ですから、何が善で何が悪かなんて時代と場所によって変わるでしょうが。
中国の思想家の逸話で「自宅が火事になったとき、勝っている動物を全て見捨てて使用人を避難させた」といった話がありますが、これなんかは動物=道具と見なしていた時代だからこそ道徳として通用する話で、いま同じ話をしても、少なくとも道徳的であるとは通用しないでしょう。
明治だか昭和あたりの日本の話でも「「嫁ぎ先で酷い仕打ちを受けているから離婚したい」と嘆く娘に、父親が「(自分の家は貧乏、相手の家は裕福なので)私たち家族の生活のために我慢しなさい」と諭す」みたいなものが現代の教科書に載ってたりするのですがね。
単なる一時代の倫理にすぎないものに迎合していないから非文化で有害で規制って、思想的な暴力も甚だしいと思うのですが。
>「有害」を禁止するのは『必ずしも』子どもためではない、ではないのですか?
いいえ、少なくとも現在出されている「有害」禁止の理由に限定すれば、その中に本当に子どものためになると言えるものは存在しません。
>明らかに有害である物を社会が禁止しない理由が私には分かりません。
いやいや、「明らかに有害」と判断するべき事由がないという話です。
恋空そのものに、タバコや酒や覚せい剤のような科学的な、あるいは論理的に妥当な有害性があるのでしょうか。
私が恋空を含め「有害情報」と見なされるものを鉤括弧つきで「有害」と言っているのは、そういった違いを踏まえての事です。
>その『時と場合』が全くと言っていい程配慮されていないのが恋空です。
ですから、「だから恋空はダメなんだ」と言うなら、学校の授業や図書館で古い文献を読んだときに、「現代では不道徳とされる」当時の道徳を知ってしまう事には問題がないのか、それを「あくまで昔の話で、現代の道徳とは別物」と考える事が必ずしもできるのか、と言う話ですよ。
むしろ世間からある程度の非難を浴びている恋空よりも、そういった「お勉強」と見なされる行為のほうが、抑制がない分危険ですらあるとだって言いうる筈なのですがね。
>事が起きてしまったあと、『これだから今時の若者は……』なんて一方的な責任転換を、私はして欲しくないのです。
それは今時の若者のせいでも恋空のせいでもなく、事を起こした本人の責任ですから。
恋空を読んだ人とそうでない人で犯罪率に有意な差があるとでもいうならともかく、そうでないなら「そりゃそういう奴もいるでしょ」という話にすぎず、恋空のせいにはなりません。
世の中では、高校の野球部が喫煙や暴力沙汰を起こしたり、アメフト部員による性犯罪なんかも起きてるわけですけど、それを「スポーツのせい」なんて言ったりしないでしょう?
と言うと「スポーツには犯罪を助長する要素が見当たらないから別問題だ」とか言われそうなので先に言っておきますけど、そもそも犯罪を助長する要素の有無なんてパッと見で分かるものじゃないでしょう。
私から見ればスポーツにだって勝利至上主義とか古臭い根性論からくるしごき、厳しい上下関係といった違法行為を助長しうる要素と言えなくないものはありますし、それらが端的に現れたのが昨年の時津風部屋の事件でしょう?
しかし、スポーツマンにしろ恋空の読者にし
ろ、罪を犯したときの責任の所在は(少年法等の話をしなければ)本人にあるのであって、貴方のやろうとしている事もまた特定の文化に対する責任転嫁ですよ。
長文になりましたので、このへんで。
恋空に対しては『何か悪そうだ、規制した方がいいんじゃないか』なんてレベルじゃないですよ。今はまだネット上の出来事に止まっているからか表立って騒がれたりはしていませんが、癌闘病者に対する侮辱は実際に行われていましたし、作者への妙な羨望(作者のような恋がしたい! 作者はこんなに辛い思いをしたんだかわいそう! 等)は既にかなり進んでいます。恋空ファン集まれ、というような掲示板など覗いてみるだけでも多少は分かって頂けると思いますが。
有害か無害か、賛否両論五分五分の事柄に対して規制すべきかどうかは場合によるでしょうし、私も何とも言えませんが、恋空はそうではないでしょう?
いつか規制解除されなければいけない、というのは、規制解除して問題が起こるかどうか見定めなければならない、ということですか? つまり、実際に問題が起きなければ規制はすべきではないと? 物事の進歩には犠牲がつきものだ、犠牲がなければ進歩しない、と言う意見には賛同しかねます。
権利の侵害とまで騒がれるほど頻繁に規制しましょう、という訳ではありません。規制するかしないかだけしか選択肢がない訳でなく、規制の仕方も色々とあるでしょう。それはその時々に社会の目で見定めていけばいい。ただ、恋空のようなものを認めてしまったら今度は、権利の名の下に成すものならば何をしても良い、ということになりかねません。
>流行に乗った手法だから芸術と違うので規制、というのも理解しかねます。
黒屋さんは現代の中高生の『流行』に対する意識について理解がありますか? いや、私だって完全に理解している訳ではないでしょうし、そもそもあの手の概念は当人達以外には理解しがたいものなのでしょうけど。三十代以降、もしかしたら二十代ですらもうピンと来ないのかも知れませんが、流行、特に現代中高生の間の流行はかなり大きなモノです。
裸婦絵に影響された犯罪と恋空に影響された犯罪(起きたとすれば)の起源は全く別です。言ってみれば、恋空は一種の洗脳効果があるんです。中高生という明確な標的を持った流行として。
勿論、洗脳されていようがいまいが犯罪者本人が責任を負うのに変わりはありませんが……というのは後述。
ちなみに、流行に乗った手法だから規制すべきだと言うのではなく、有害と思われる情報が流行に乗せられてしまったから規制すべき、です。全く意味が違ってしまいます。
>それはつまり、恋空の影響で安易なセックスやドラッグに手を出す輩が出たら責任は恋空サイドにあるけど、
黒屋さんは恋空を読んだことがありますよね? 映画や漫画より書籍、できれば比較的無修正である原作が理想なのですが(ついでに作者のブログやファンの声なども併せて読んでいた方が分かりやすいかと)。
まさに、安易なセックス(避妊無し・野外性行為、レイプ)やドラッグ(主人公の恋人が堂々とやってます)に手を出す輩が出かねない、と言われているんです。
実際のところ問題はもっとありますが。これを箇条書きにでもしようとするとコピペ作業になりそうなので省きます。どんな問題が危惧されているのか、少し調べれば分かり易くまとめられたものが見つかりますから。
(この辺りは12434さんへの返信も兼ねて)
>そうですか?裸体の彫刻なんか、いくつかは教科書に載る程度の支持は受けてますけど?
それは『支持』違いかと。ちょっと言葉にしづらいですが、教科書に載るような芸術の支持と恋空が受けている支持は質が違うように思われます。
無理矢理例えるなら。今時の女子高生が、電車の中で声高々に芸術史の話をしているとか、想像出来ますか? それも1グループとかでなくあちこちで、かなり多くの人数が、当たり前のように。自分達の好きな人気アイドルについて談笑するような雰囲気でミケランジェロだのゴッホだの、ですよ? ……その方面の専門家からすれば喜ばしい光景なのかも知れませんが、私からみれば異様以外の何モノでもありませんね。
>また逆に、爆発的に広がる事で支持と同程度の反発も受ける事があるというのは、恋空自体が一番いい例となっていますけど?
『爆発的に広がったから』反発を受ける、というのはどうにも理解出来ませんし、恋空は『間違った知識を伝える物が爆発的に広がってしまったから』反発が起きたんです。これも反発を受ける理由の内の一つでしかありませんが。
どんなに人気のある物でも批判があるのは不思議ではありませんが、恋空はそういう流れで批判意見がある訳ではないのです。
>いや、ですから、何が善で何が悪かなんて〜〜思想的な暴力も甚だしいと思うのですが。
これは私の持論なので批判があって当然かも知れませんが、善悪の判断はその時の社会が下せば良いのではないでしょうか?
例えば現時点で恋空を悪と判断し社会が規制をしたとして。有り得るとは思えませんが、将来的に恋空を善と捉えられる社会が訪れたなら、規制を解除しても構わないと思います。
勿論、善か悪かの二択ではないのですし、それこそどこぞの真理教が革命を起こして勝利でもしない限り、そう簡単にコロコロ変わったりはしないでしょうが。
>少なくとも現在出されている「有害」禁止の理由に限定すれば、その中に本当に子どものためになると言えるものは存在しません。
それもまた確証はないのではないでしょうか? 存在しないと断言できるような根拠があるのですか?
>「明らかに有害」と判断するべき事由がないという話です。
恋空そのものに、タバコや酒や覚せい剤のような科学的な、あるいは論理的に妥当な有害性があるのでしょうか。
明らかに、と言うレベルではないかも知れません。そこは少々言い過ぎでした。
ただ、タバコを例に挙げられていますが、これは恋空の流れに近い物だと思います。
かつてタバコは、映画や広告の情報操作で「格好いい物」「大人の証」である(未だにそれを口にする人はいますが)という『流行に乗せられ』ていました。タバコの有害性を主張したのは一部の学者くらいで、長年に渡り誤った認識がなされていました。そして今ではどうなったかと言えば、タバコのパッケージは見るも無惨な状態に(そう言えば、パッケージのデザインを見ても、日本が他国より規制の仕方が緩いのがよく分かります。思うに、タバコが売れなくなると経済的に困る人がいるから、だと思うのですが)。
科学的な有害性の立証、までには至らないかも知れませんが、いかにも恋空が辿りそうな流れではないでしょうか。
>ですから、「だから恋空はダメなんだ」と言うなら〜〜と言う話ですよ。
現在では不道徳とされる、と教えられているではないですか。
歴史の教科書に載っている悪習(現代で言うところの悪習)を本気で真似するような子どもはまずいないでしょう(や、単なる印象ですが)。これも流行の話で、古い物(過去の悪習など)と新しい物(恋空やケータイ小説のような)では扱われ方がまるで違います。
これは個人的な考えですが、過去の悪習を自ら真似ていくのはむしろ、学校という小社会に固められた子どもより、ある程度自分の意見を持ち、かつある意味自由に行動出来る成人の方が似合うような気がします。
>それは今時の若者のせいでも恋空のせいでもなく、事を起こした本人の責任ですから。
それは確かに。犯罪者の責任は犯罪者本人にあるべきです。恋空の所為で違反したという犯罪者がいたとして、恋空は規制されるけどその犯罪者は断罪されない、なんてことはあってはいけませんから。
前にも似たようなことを書いたような気がしますが。責任は犯罪者本人にある、けれど、その犯罪に至るきっかけになったものに責任がない訳ではない。私はそう思っています。
犯罪は行った者が悪い。それは正しいけれど、そこで思考停止してしまうのは精神病患者に対する偏見に近い考え方です。長年信じてきた道徳に反するなんてそう簡単な事ではありません。犯罪者の心中では、日々平凡に生きていける人間にとっては想像も出来ないような激しい葛藤があった筈です。犯行に至る理由を軽視し、犯罪の実行者だけを断罪して満足する、それではその後の模倣的な犯罪を無駄に増やすだけです。
……と、ここまで書いて気付きましたが。恋空によって生まれる可能性のある犯罪者に心の葛藤があるかと言われれば、ないような気がしますね。道徳が教えられる前に反道徳(例えば間違った性知識など)をすり込む、それが恋空ですから。前から言っている『きっかけ』から悪意を感じる辺り、こっちの方がタチが悪いですね。
>世の中では、高校の野球部が喫煙や暴力沙汰を起こしたり、アメフト部員による性犯罪なんかも起きてるわけですけど、それを「スポーツのせい」なんて言ったりしないでしょう?
この文面を見る限りだと、スポーツのせいだと仮定する理由がわからないのですが。そもそも恋空とスポーツではカテゴリが違いすぎます。スポーツには、恋空のような、犯罪を助長する要素が見当たりませんから。
>スポーツにだって勝利至上主義とか〜〜の事件でしょう?
例えば、部活の練習が厳しすぎて、ストレスが溜まり違反行為に走ったとすれば、それはそれでその部活の責任者(監督や担当教員、もしかしたら主将なども)にも責任があります。スポーツそのものに責任はないでしょう。
例えば、恋空の間違った内容を信じて違反行為に走ったとすれば、それは恋空の責任者(作者や出版社)にも責任があります。(それが本当に恋空が原因なのか判断出来るかどうかは、実際に起きてみなければ分かりませんが。疑いがあれば、今が好機と規制を呼び掛ける声が強まるのは何にしても同じでしょう。)
まあ、スポーツに関して言えば、『量が多くて厳しい練習』に耐えられないのならばやめてしまった方がいいと思いますが。
非があろうとなかろうと、問題が起きた時に責任を負わされるから『責任者』と言うのでしょう?
そして、その責任をどうも放棄しているように見えるのが恋空の責任者です。これは確か、最初の投稿の時に書いた覚えが。
もしかしたら、恋空を規制する必要は、そろそろなくなってくるかも知れませんね。流行り廃りが激しいのもまた流行の特徴ですし。「恋空最高!」なんて言っていた人が、その内「まだ恋空なんて読んでるの? 遅れてるね」なんて言い出すことも予想出来ますし。
でもそれは決していい事じゃありません。その時点で恋空責任者は目一杯のボロ儲けをしていて、まさに勧善懲悪の反対、悪が成功する構造。間違った知識をさも正義のように公表し利益を得た、にもかかわらず何の断罪も受けていないのですからね。
しかも「批判があっても関係ない、私は大人になってもずっと恋空ファンであり続ける!(このように言う人、割といます)」と考え、将来的に問題を起こしかねない人も残したまま。流行が過ぎ去ったあとでは、確かに「この犯罪は恋空の所為だ!」と言いづらくなるかも知れませんね。思う壺です。
何にせよ、放置しても良いことはなにもないでしょう。いや、恋空ファンの欲求の満足と恋空責任者の大幅黒字支援くらいにはなるのでしょうか。
放置するくらいならむしろ、恋空は無害だから規制する必要なし、とでも、エラい人に公言して貰いたいです。そうなったらもう第三者として傍観を決め込み、せめて自分の周囲で事件が起きないことを祈るだけです。
なぜその状態でこのような話をしているかというと、これは「恋空と言う作品に関する文学的評価」とはまったく別の話であるからです。
「有害」「規制」という場合、それは文学的な質の話ではなく、読んだ人にどのような悪影響があるのかという問題であって、科学や統計的な研究を基に議論するべき話でしょう。
>恋空に対しては『何か悪そうだ、規制した方がいいんじゃないか』なんてレベルじゃないですよ。
レベルですよそれは。
そうやって賛美している子たちは、まあアホなんでしょうけど、その子達のうち何%が実際に違法行為を行うのですかね。
違法行為を賛美する人間が必ず違法行為を行うわけじゃないでしょうよ。
それこそ、貴方たち曰く「有害情報が蔓延している」現代社会において、青少年の犯罪は昔よりも格段に減っているという事実を鑑みれば、
殆どの人間は現実の倫理と照らして歯止めをかけることが出来ます(出来ないバカは、恋空を止めたところで何かしらの影響で違法行為をやりますって)し、その状態はむしろ「社会通年にあわせて自分の欲望を抑える事が出来る」という状態であって、欲望が発生するというどうしようもない現象に対して無理に自分を責めるよりは、よっぽど精神的に健康だと思うのですが。
癌闘病者に対する侮辱というのも、恋空がいかに「文学的に」ダメか(あるいは作者がいかに無知で無配慮か)という話であって、これを有害で規制でどうのこうのとか言ったら、「ゴーマニズム宣言」みたいなウヨサヨの問題と直接関わる本なんかみんな書けなくなっちゃう。
ある思想がいいか悪いかの判断なんて各々でするものであって(ですから、単に「この作品はおかしい」という程度の批判であれば問題ありませんし、それはアマゾンとかで散々行われています。)、
公的にどうこうなんて言い出したら、それはもう共産圏の発想ですよ。
>有害と思われる情報が流行に乗せられてしまったから規制すべき
ですから、流行にさえ乗っていなければ、その影響で人殺しが出ようがテロリストが出ようが問題ないけど、流行だったらダメって事ですよね?
「恋空読んでないなんて遅れてる」とほざく連中を「バカじゃねーの?」と嘲笑するのは結構ですけど、流行に乗ったからダメだ、なんて言い出したら、そのうち「これは流行に乗る可能性があるから有害で規制」なんて事も言い出されますよ。
>それもまた確証はないのではないでしょうか? 存在しないと断言できるような根拠があるのですか?
「有害情報によって青少年の健全な育成が妨げられている」という言い分については、「そもそも有害情報とやらのない昔のほうが子どもは不健全じゃん」と言い得るに充分なデータがあります。
詳しくは↓のURL
http://blog.livedoor.jp/kangaeru2001/
それと、そこの管理人の本
管賀江留郎「戦前の少年犯罪」(築地書館)
あと、実写の児童ポルノならば、犠牲になっている子どもが存在するという観点から規制は正当といえますが、フィクションについては「保護すべき子ども」なんて実在しませんし。
また、「世界各国ではもっと厳しい規制が行われているのだから日本もその水準に合わせるべき」なんて意見もありますが、これだってそもそも日本の性犯罪率は先進国中でもきわめて低いことから、わざわざ日本よりもダメな国のやり方にあわせる必要なんかないと言えますし。
まあ「どれだけデータを示したって、完全には悪影響を否定しきれるものじゃないじゃないか」と言う意味で仰られているのでしたら、それは確かにその通りですが。
>タバコの有害性を主張したのは一部の学者
その一部の学者が科学的にタバコの有害性を証明したからこそ、タバコは体に悪いからやめようや、という事になったのですがね。
科学とか論理という視点を挟まずにそれを行うなら、単なる自由権の侵害ですよ。
逆に言えば、もし今後タバコの有害性に関する議論がまったく覆る事があれば、その時点で今行われているタバコ規制の殆どは否定されるべきですし。(煙たがる人に配慮しよう、くらいの事は言えると思いますけど)
>現在では不道徳とされる、と教えられているではないですか。
授業中に「まあ昔の話だからね」的なフォローはありましたけど、あれも教師の個人的な判断によるものだったと思いますけど。
というか、高校の授業だったのですが、高校生にもなりゃそのくらいの判断は自分でつくものでしょ。
どう教えるかとかではなくて、自分で考えろと。
それは恋空だって同じでしょ。作者サイドがそう思っているかはともかく、中高生にもなって自分で考えないのはバカですし、それ以下なら親が教育しろよ、という話。
>この文面を見る限りだと、スポーツのせいだと仮定する理由がわからないのですが。
だとしたら、私はそれと同じレベルで「ある問題が起こったときに、それを問題を起こした人間の触れていた(ケータイ小説のような)文化のせいだと仮定しうる理由」が分かりません。
>犯罪を助長する要素が見当たりませんから。
たとえば京都大学の元アメフト部員によるレイプ事件なんてものが数年前にありましたけど、
http://www.nikkansports.com/ns/general/p-so-tp0-060127-0004.html
これは事件以前にも同様の鍋パーティー(おそらくセックス目的でしょう)を開いているという事実を踏まえれば、体育会系特有のマッチョイズムが遠因になっている可能性はかなり高い筈なんですけど。
という一部学生の例に限らず、旧制高校時代の東大と京大は、野球の対校試合が行われるたびに街中で大規模な暴力沙汰を行っていたそうで、これはもう「それでも野球には犯罪を助長する要素はない」などと言いつつ恋空は非難するというのであれば、恣意的すぎて着いていけません。
>まさに勧善懲悪の反対、悪が成功する構造。間違った知識をさも正義のように公表し利益を得た、にもかかわらず何の断罪も受けていないのですからね。
これが悪だと言われるなら、金持ってる奴なんて全員悪だと思うのですがね。ゴアとか例を挙げるまでもなく。
あと、アダルトゲームの規制団体なんかそうですけど、天下り先確保のために聞こえのいい事を言って、現行法をきちんと運用していれば必要のないはずの規制を推し進める連中も存在しますよ。
しばらくコメントしていなかったのは、遠巻きに静観していたわけではありません。あまりにも速い展開に着いていけなかっただけです(汗)
一通り読ませていただいて、皆さんの主張はどれも分かるような気がします。それに、「社会を良く(楽しく)したい」という情熱は同じだなと思いました。
では何故、時々意見が噛み合わなくなるかと考えると、まだ本質にたどり着いていないのかなぁって気がします。(気がしているだけです)
話は大きすぎるかも知れませんが、キリスト教民主主義を掲げる米国と、共産主義(社会主義)を掲げる中国(旧ソ連も)が、それぞれ幸福な社会を目指しているけど、実現の経路が違って対立しているような感じかな。どちらも目指している世界は、戦争の無い、貧しいもののいない社会だし、行き着くところは同じじゃないかと思っています。同じ人間なんだから。
マルクスが、「改宗させられたことを恨んで作り出した理論」という点では、ちょっと始まった動機が気にいらないけど。でも、今では五十歩百歩って感じですね。
そんな訳で、皆さん目指している世界は同じようなものだと思いますので、このような議論の中で良いものが見つかることを願っています。
(すいません、客観的で。この速さについて行けないものですから。)
ところで、「恋空」に限った話ではないのですが、「表現の自由」とか「言論の自由」などという言葉を聞くときに、「責任」を聞くことが無いのが気になります。
「自由」には必ず「責任」が伴べきものだと思っています。
作家などが「表現の自由」を主張するなら、「表現の責任」も負うべきだと思っています。
責任を負う姿勢がないのは、
・何事においても無責任な人か
・偉そうな事を言っている割には責任があることが分からないか
・分かっているが、そのことに触れずに大衆を欺いている
のどれかでしょうね。
その責任の取り方についての議論が、もっと活発にされるべきじゃないかと思っています。
例えば「デスノート」に刺激されてその通りに犯罪を犯したとか、推理小説の完全犯罪の方法を知ってバレないと思ってその通りに犯罪を犯した、などという事が明らかな場合に、作者や出版社も罪を負い賠償責任を負うとか。そんな単純な事じゃないかも知れませんが、そういう責任について活発には議論されていないように思われます。
推理小説も、自分が儲かるからとか、ファンが喜ぶからとかの安易で無責任な気持ちで書かないでもらいたいです。
「表現の自由」「報道の自由」などを主張するメディアなどを見ると、どうも「無責任」がまかり通っているような気がしてなりません。
「恋空」も、責任を負う覚悟を持って出版、映画化しているのなら良いですが、「反対意見を完全に黙殺」ってところで、責任感が無さ過ぎという気がします。
もしかしたら、まともに議論したら勝てるはず無いと思って強行策に出ているのでしょうか。もしそうなら、テロ活動みたいですよね。(ちょっと飛躍し過ぎかな)
私の主張を信じて実践した結果、犯罪を犯したとなれば、私も責めを負う、それで良いんじゃないかと思います。
そういう責任感というものが、もう少し社会の中で強くなってもらいたいです。
特に、○○の影響で犯罪を〜という場合に気をつけなければいけないのは、「○○の影響がある」というのは実は報道の印象操作や、警察や本人の思い込みに過ぎない場合です。
いや、場合というより、少なくとも因果関係の問題として考えれば、「○○の影響」なんてものは大抵は誤解なのですがね。(理由については前述の通り「少年犯罪の減少」という事実があるから)
つまり、「○○の影響」と言われるものの殆どは「冤罪」であるという可能性。
そりゃ、人を殺したいと思っている人間の中には、人殺しの描写を好む人間が少なからずいるでしょう。
しかしこの場合、作品に触れたということは犯罪に至る原因ではなく、犯罪に至る過程にあった予兆行動の一つという事になります。
悪影響に対して責任を負うべきというなら、まずは「その作品がなければ、この人は罪を犯す事がなかった」という事が事実として証明されなければなりません。
大抵の場合は「頭のおかしい人間が、たまたま犯罪描写のある作品に触れただけ」であると考えたほうが自然であり、そんなことについて、いちいち作者サイドに責任を取らせるのはおかしいのです。
また、犯行に対して影響を与えたものというのを、果たしてどんな基準で選び出すかという問題もあります(上述の通り、本人の供述というのは多分に思い込みである可能性があります)。
幸月さんの見解を見ても思うのですが、なぜ、違法行為を犯した人間が出てきたときに、その人間が触れていた「違法行為の描かれた創作物」(それも時代劇などの一般性が高いものは含まれず、専らゲームやインターネットなどの新興の文化の側にあるもののみ)の影響であるという仮定しかなされないのでしょうか。
どうして、われわれの一般的な生活に含まれる要素の中には犯罪の要因となりうる何かが存在しない、あるいは存在しても上記のような創作物に比べれば問題は少ない、などということが言えるのでしょうか。
私から見れば、悪影響というなら、
時津風部屋の事件なら相撲の悪影響、
昨年起きた、父親の不倫に腹を立てた少女による斧事件は家族関係の悪影響、
はたまた数年前に起きた、夕飯のおかずで口論になり妻を殺害した老人の事件は食事の悪影響、
そういったものを検討するで無しに
「違法行為が描かれているものにだけ(あるいは、そういうものの場合特別問題視するほどの)犯罪を助長するような要素が存在する」
という思考法になること自体が、とんでもない素人考えだと思うのです
(悲しい事に、この素人考えを行政やときには司法のレベルでも行っているのが今の日本であり、多くの先進国なのですが)。
少なくとも現状、上記のように考えられうる多くの要素と比べて、影響の大小において有意な差があえるとは思えないような、恋空等創作物に対してのみ、悪影響に対する責任を負えというのは、あまりにも乱暴な意見だと言わざるを得ません。
平たく言うと、「包丁を使った事件が起きたからって、包丁のメーカーの責任にするのって変でしょ?悪いのは犯人でしょ?」って話ですよ。
そういった人が一人や二人しか存在しないのだとしたら、それは只の偶然でしかありません。
自分たちの製品を使ったあとで偶然病気になった人たちに対して、企業が負うべき責任というのは存在しないはずです。
私は、創作物の影響についても同様に考えるべきだと思うのですよ。
その作品を見た人の何%が罪を犯したのか、その割合は作品を見なかった人の犯罪率と比べて有意に多いのか否か。
筒井康隆氏のように、一個人の見解として「自分の作品には悪影響がある」と言っているのならともかく、公的な問題としての悪影響を扱うならば、この点を無視した議論は杜撰だと思うのです。
責任の有無について、詳しい説明ありがとうございます。
私も作品が原因だということを示すのが難しそうだとは思っていました。少なくとも本人の自白と、客観性が必要だろうと思いますし、客観性というのがまた難しそうです。
黒屋ぶるーさんの仰るとおり、因果関係を示すのは困難な場合が殆どになるでしょうね。
でも、これは私の勝手な正義感かもしれませんが、影響を証明しづらいから何を言っても構わないとか、何を書いても構わないというのって気に入らないというか、とても理不尽で不公平感があります。
政治家はたった一言の失言でも責任が追及され多くのマスコミからバッシングされます。でも、政治家をバッシングしているマスコミは、小さな事でも誇張して報道して視聴率を上げたり売り上げを伸ばすということが目立ちます。最近では倖田來未の羊水発言とかね。
情報操作(連日繰り返し報道など)をして国民を洗脳し味方に出来るという大きな力を利用して、政治家にまで圧力をかける姿に疑問を感じます。まあ、その力を利用して政治家の軌道修正をするというなら認めてもいいけど、国のためでも国民のためでもなく、ただ視聴率のためとしか思えないような権力の使い方には疑問を感じます。
「猟奇殺人のビデオを見ているうちに、本当にやってみたくなった」とか「動物虐待のビデオを見て実際にやりたくなった」という話は時々耳にします。元々そのような潜在的な性格を持っていたのでしょう。でもビデオが無ければ行動を起こさなかったかもしれませんが、因果関係の証明は難しいでしょう。
小説でも同様に、誘発されなければ犯罪を犯さなかった人なのに、読んだことが引き金になって犯罪を犯したという場合がもしあったとしても、証明は難しいという理由で責任を問われることは無いでしょう。
因果関係を証明するのは難しいと思いますが、このように犯罪を誘発する可能性があると思って、社会のためを思って出版を控える作家もいれば、自分の儲けを最優先して出版して儲ける作家もいる。この不公平感、なんとかならないものでしょうかね。でも、不公平と思っているのは少数派なのかな。
「正直者がバカを見る」社会じゃなくて、「正直者が徳をする」社会に少しでも近づいて欲しいです。
作家とかマスコミの「自由」というのも当然「自由意志」であり、出すべき出さざるべきかの判断も自由意志。社会に大きな影響をもちながらも、自由意志に責任を問われない業界というのが存在する。このままで良いのか疑問を感じています。
「簡単な爆薬の作り方」とか「簡単で強力な毒薬製造方法」なんて本を出版して儲けたとしても、それは「自由」という権利で守られるとしたら納得できないなぁ。さすがにそれは規制されるかな。
自分自身、まだ整理できていないようですが、何かおかしい、もっと改善する余地がありそうな気がしています。とても難しそうな気もしていますが。
ぐだぐだ言わないで、携帯禁止 これが一番です。
小学生でも流行っているというのは知りませんでした。ショックですね。
ケータイ小説の心配な点は、
多くの子供が「興味を持っているが入手が難しい情報」を提供すると人気が出る
という点だと思っています。そして、親や社会のコントロールが及びにくいので暴走する可能性を秘めています。
この事実を、多くの親に認知させる必要がありますね。
親が各自、自分の子供にだけ規制すりゃいいだけのこと。
自分の子供にだけ規制して子供を守れるのが利理想ですよね。
でも、それだけで子供を守れる時代は終わろうとしている気がします。
鳥インフルエンザとかの伝染病と同じように、周囲から影響されるし、犯罪に巻き込まれるし。
ケータイ持っていなくても、トイレで用を足す写真をチェーンメールとして広められてしまったり、なりすましで実名のプロフを作成されて被害に遭う時代ですから困ったものです。
どうしたら安全になるんでしょうかね。
たしかに、恋空は有害なところもあると思います。
でも、読みたい人は読み、読みたくない人は読まない。それでいいのではないかと思います。
恋空は書籍化、マンガ化、映画化、ドラマ化…と、いろいろな形で表現されています。
それも、やはり恋空のファンが多いからだと思います。
恋空を読んで、面白いと感じる人もたくさんいる。
ドラマ化を心から喜んでいる人もたくさんいます。
そんな人たちから恋空を奪ってしまうのは、私はよくないと思います。
しかし、本の内容を全く変えずにドラマにするのは過激ですよね。
そこは、よく考えて放送してもらいたいです。
長文失礼しました。
たしかに、「恋空」や「赤い糸」など、年齢によってはたいして有害ではないでしょうし、一部の記述が修正されれば、中学生向けにも出来るかもしれませんね。
映画化、ドラマ化されたときには少しはソフトになると期待していますが、その結果、原作を読む子が増えると困ると思っています。
これらの作者にとっては不本意かもしれませんが、原作の過激な性的表現や常習的なドラッグやタバコなどの表現を書き換えてもらえない限り、保護者は年齢制限を考えざるを得ないし、「ケータイ小説は有害な物が多いから注意しましょう」と言い続けなければなりません。ケータイ小説の全てに年齢制限のフィルタを付けることになります。
このままだと、ケータイ小説の文化に対してもマイナスイメージを与えるだけじゃないかと思います。
ケータイ小説には、「ほのぼの系」などもあるし、文学的にも良い作品が出るかもしれないけど、一部の過激な作品のために、ケータイ小説全体のイメージダウンになってしまいそうです。
初めから「対象年齢別」に分類されていれば、良い作品がフィルタで遮断されなくて済みますから、そういう方向でも良いと思います。